春告げ

 通学途中の他人の庭に、梅が一輪ひらいていた。春なんだなと思いかけてはっとする。物心ついてからはじめて、真衣香に教わらずに春の到来を知ったと気付いて。


・・・・・


 朝の出欠確認で、真衣香の名前はごく自然に読み飛ばされた。欠席が始まって二週間で担任もすっかり慣れたらしい。センターまであと数日だというのに。いちいち動揺されるのも嫌な話か。

 喘息持ちでちょっとした風邪でも長引きやすいのは昔から。小学生の頃は授業の一割くらいを私のノートで勉強していた。おかげで訓練されて、板書を取るのが早くてきれいとよく言われる。

 小学校から高三の今までクラスが別れたことがない。腐れ縁なのか、先生がお守がわりとくっつけたのか。

 本当ならお見舞いに行きたいところだけど。受験生なんだから伝染しちゃ大変、と真衣香のママに言われたら仕方ない。顔を見たいな。浮世離れしたところのある真衣香。透き通りそうに白くて、色素の薄い虹彩をもち、猫っ毛で癖っ毛なのに髪を下ろしたままにしている真衣香。からまる髪に櫛を入れてあげたこともある。

 空っぽの席が気になって、起立に遅れた。誰も気にはしない。一時間目がはじまる。


・・・・・


 家に帰って赤本広げて、やっぱり閉じてキッチンへ行く。牛乳を群青色のマグについで電子レンジにかける。あいだ、スマホの画面をつけてみた。通知はない。メールくらいすればいいのに指は動かなかった。

 いつも梅より早く、真衣香は春を教えてくれる。不思議とこの季節に会えないほど体調を崩すことはなくて。だから今年がはじめてで。思い至ると胸がざわつく。

 リビングの電話が鳴った。

「もしもし?」

「やっぱり理子だ。あたし」

「真衣香?」

「そう。今かけたら理子が出ると思ったの」

 声には張りがある。だいぶ持ち直したみたい。このぶんならセンターは受けられるだろう。

「寝込んでるうちに春、来ちゃった。理子が気づく前に言うのが好きだったのに」

「私がまだ気づいていない可能性については?」

「もう梅も咲いちゃったもの。そこまで鈍くないでしょう」

「でも今知ったことにしたいな」

「ばかなこと言わないの。明日から学校行くから、またね」

「もうすぐ自由登校になっちゃうよ」

「そしたらうちで勉強する?」

「したい」

「ママもきっとわかっているから、言っておくね」

 電話を切って、ようやく春を迎えた心地になる。ちょうどのタイミングでレンジが加熱終了を告げた。


・・・・・


 朝いちばんの教室に真衣香の背中があった。窓の前に立って外を眺めている。お人形のような、生っぽくない整った姿。ふわふわの髪をゆらして振り向く。フレッシュな柑橘の匂いがした。

「真衣香、何かつけてる? すごくいい香り」

 心当たりがないのか、小首を傾げて腕や髪を鼻に近づける。

「あ。もしかして、これ?」

 たおやかな指先が私の前に差し出される。先ほどより強い香り。

「朝ごはんのときにはっさくを剥いたから」

 優雅な、というかテンポのゆっくりとした暮らしが垣間見える。ど庶民の私は、かつてその端正さに憧れたこともあったけれど。

「あぁー、でも、安心したー……」

「うん、試験の時じゃなくてよかった」

「それもあるけど。真衣香、たまに壊れちゃいそうに儚げなんだもん」

「死ぬかと思った?」

「思ってない。けどたまに不安にはなるかなぁ。雪みたいに消えちゃいそうで」

「あたしはここにいるよ」

 私の目線ほどの身長しかない真衣香が伸び上がって首に抱きついてくる。髪はごくごく淡いフローラル系の香り。つま先立ちの状態だから全体重はかからないけれど、あまりに軽い。ふれた部分の温かさだけが命の証のようだった。

「あたしね、理子と同じ学校にいくよ」

 真衣香が断定した未来のことで、叶わなかったことは記憶の限りない。今度こそ安心して、細い腰を軽く抱きしめかえす。

「うん、ありがとう。私も頑張るよ」

 腕をほどいて離れる。細い髪の毛が頬をなでていった。すこし離れるとまたはっさくの匂いが立つ。真衣香はひらりと自分の席について本を開いた。文字組みから詩集と知れる。教室にはまだ誰も来そうにない。

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