モラトリアムをもう一度

「はじまり、はじまりー」

 これがわたしの唯一の台詞だ。叔父は児童館で紙芝居のボランティアをやっていて、その手伝いをしている。とはいっても名ばかりで行き帰りの荷物持ちがメインだった。若い頃から子ども相手のイベントに関わってきた叔父は、抑揚の付け方からしてこなれていた。正直、手伝いなんて必要ない。

 ではなぜわたしを引きまわすのかと考えるのは精神衛生上よろしくない。母の実家に満ちている甘くて苦い気遣いに行きついてしまうからだ。家事を手伝うのも、朝はきちんと起きるのも約束させられている。わたしのためなのは知っているし、言わないでくれるところまで察してしまっていた。


 紙芝居のなかでは、犬にきび団子をやっているところだ。

 子どもたちは食い入るように事の顛末を見守っている。桃太郎くらい知っているだろうに。


 公園で水あめを売りながら自転車にのっけた紙芝居を見せている、みたいな漠然としたイメージを叔父にきいてみたら、お前は昭和の生まれかよと笑われた。ぎりぎり平成生まれのわたしは現在においてそんなおじさんは不審者扱い間違いなしだと理解している。ままならないなぁと嘆きたくなるのは馬鹿なんだろうか。みんな世の中を良くしたくてあれこれ決まりを作るんだろうに、わたしは生まれる時代を間違えたと感じてしまう。未来にひろがりなんて大らかなワードは似合わない。どこか決められた終着点にむかって収斂していくような気がしている。


 桃太郎はお供を連れて、鬼ヶ島にやってくる。悪を討つお決まりのパターンだ。叔父の迫真の演技は全員の視線をきちんと集めていた。


 予定調和って楽なんだろうな。ストレスがない。ああだこうだ言われながら慣例そのもののレールに乗った人生が王道とされるのは痛みが少ないからかもしれない。わたしが道を踏み外したのはいつだろう。大学を決めた時か、研究室を選んだ時か、あるいは就職活動の時か。会社を辞めたときではない。あれはすでにぬかるみに突っ込んだあとだった。


 頭領の赤鬼を殺した桃太郎が宝物とともに凱旋する。ほっと緩む場の空気。歓声を上げる子もいる。

 ピリオドを打つのは叔父だ。


「おしまい」


 四音にこれほどの感情をのせるひとをほかに見たことがなかった。終わりよければすべてよし。だから、板っきれのような喋り方しかできないわたしには向かないのだ。

 子どもたちにアンコールをせがまれながら、叔父は紙芝居を撤収する。梱包を手伝うわたしのことは誰にも見えていないようだった。まさしく空気ってやつだ。コミュニケーションは求めていないが、寂しくないといえばうそになる。


 児童館の外にある自販機で、叔父が紙パックのオレンジジュースを買ってくれる。

「バイト代な」

「ありがとう……叔父さんはボランティアなのにわたしにバイト代が出るっていうのも変な話だけど」

「ま、気持ちだ気持ち」

 このチョイスはわたしの幼少期の好みを覚えていてのことだ。甘ったるいりんご味より、柑橘の酸味が好きだった。気難しい子どもが気難しいまま大人になって、ジンライムが好物になってしまったのを彼らは知らない。この家に来てからお酒は絶っていた。

 独り暮らしの頃は毎日のように飲んでいた。不毛な会社の飲み会ではもっぱらビールだった。ぬるくて炭酸は抜けていて不味かったけれど上司にウケるのはそういう若いコなのだ。

 友達と出かけたら、飲み放題はだいたいジントニックを選んでいた。好きだよねぇと言われるくらいに。薄いから何杯飲んでも酔わなかった。

 仕事は嫌いだった。上司も同僚も嫌いだった。嫌いだとはっきり言えないまま、ひとりの夜の慰みにアルコールを摂るようになった。缶酎ハイからワインまで、手軽そうなものを一通り試した。で、思い立って買ってみたジンにはまってしまった。野菜もろくに入っていない冷蔵庫に、ライムだけはいつでもあった。


 会社に行くと思うだけで胃が痛くて、あまりものを食べなくなった。半年で体重は十キロ近く減った。勤めていた会社のトイレの蛍光灯は安くて青っぽい。怪談がはかどりそうな感じだ。その鏡に映った自分があまりにも亡霊じみていて、席に戻ってすぐ退職願を書いた。鬱にもアルコール依存症にも肝臓病にもならないまま辞める判断がついたのは幸運だったと思う。


 実家に戻ったけれど母と無職の娘とは折り合いが悪く、話し合いの末に母の実家に預けられることになった。独居だったからわたしの最も暗い部分は家族のだれも見ていない。仕事に休みは少なく、帰省もしなかった。


 祖父母も叔父もわたしに優しい。といって甘やかしもしない。


 そんな理想的な環境でわたしはどんどん健康的になり、体重は大学時代より少し重いくらいで安定している。だからこそ、このままでいいんだろうかと思いはじめている。わたしの中で止まっていた時間はゆるやかに動き出していた。

 でも、世の中の時間は止まっていてはくれないのだ。新卒のカードを無駄遣いし、半年やそこらで会社をやめ、親の実家でのうのうと脛をかじっている。院に進学するのだって二年間就職が遅れるハンデがあるとさえ言われるのに。世間様は名前のつかない期間にうるさい。わたしは一生、この一年間のことを苦笑いとともに話さなければならないんだろう。


 モラトリアムをもう一度、そう願ったことがないわけじゃない。時間を止めたからってあの日のきらめきが戻るわけでもないはずなのに。皮肉な形で願いは叶って、わたしは叔父の背を追って祖父母の待つ家に帰る。

 ジュースの紙パックに付属のストローを刺した。銘柄は子どものときと同じだけれど、記憶よりも甘い。叔父はあまり多くをわたしに語らないが、一度だけアドバイスめいたことを口にしていた。「人間、いつからだって何度だってスタートを切れるもんだよ。俺だって転職したり、自分探しとか言ってボランティアやら旅やらしてきたんだ」

 わたしにそれができるだろうか。レールを走るつもりでいつの間にか飛び出してしまったどんくさいわたしに。だけど不安を溶かすのにアルコールはもう使わない。まっすぐ前を見ていたら、いつのまにか新しい道を走り出しているような。そんな未来を願いはじめている。

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