完璧なファースト・キスの作りかた
「どうぞ召し上がれ。ハッピーバレンタイン」
そっけない風を装っても、いたずらっぽい笑顔は冷たさなんて欠片も感じさせない。淡いピンクに真っ赤なハートのネイルは今日のために新調したのだろうか。僕の視線は冬でも荒れない手の甲を通って、薄手のタートルネックをまとった身体、それからすらりと伸びた首、形の良い頭部へ至る。このうち僕の手が触れたことのある場所は手首より先だけだ。小さくはないけれど柔らかく線の細い、大理石よりもきめの細かい肌を持つ葉月の手。
「召し上がれ?」
視線の圧に負けてひとつを手に取る。アメリカンチェリーを使ったのだろうか、大ぶりの実は重みがあった。冬の室温にチョコレートの殻はカリリと硬い。歯で破れば舌に溶けて甘く、同時に洋酒がこぼれる。たっぷりとキルシュを吸ったさくらんぼはとろけて、熱く苦く香り高く鼻に抜ける。
口の中の温度はそれらすべてをとろかして、混ざりあう味と香りは表情を刻々と変えていく。アルコールの落ちた胸が燃えるようだった。頬に血が上るのがわかる。
啜った紅茶は熱いのに、身体を冷やしてくれるような気がした。重なって複雑になった味を流した後は、快い香りだけがふんわりと残った。
「いかが?」
「ちょっと、これ種どうしたらいいの?」
「え。普通にその小皿に出してくれたらいいよ。ってか口に入ったまま紅茶飲んだの? 器用すぎない?」
「なんか彼女の前で口からモノを出すのはちょっと」
「待って待って、ティッシュ持ってくる。もう、なんか決まんないなぁ」
どうしてか、気取ってみたときに限ってどこか抜けているのが僕らだ。ひとしきり笑ったあと、もう一度チェリーボンボンを口にした。舌の上ではじける花火のように、薄いチョコレートから甘酸っぱさも苦さも辛さも広がっていく。
「美味しいよ。こういう手の込んだチョコって買うもんだと思ってた」
「手間かけてますから」
つんと澄まして葉月は答える。出来が良すぎるので先に言っとくけど、手作りだからね。と予告してきたのはおそらく無駄じゃない。手作りの愛情みたいなあやふやなものより、とびきりおすすめの市販品をセレクトするという手段に出そうな性格ではあるし。手抜きじゃなくて、好きなものを共有するための贈り物として。
「ふふふ、半年前から仕込んでましたのよ?」
葉月もひとつ、皿からつまみあげる。チェリーレッドの口紅に彩られた唇にチョコレートは吸い込まれる。かり、と音を立てて彼女の口にも花火は弾ける。
「結構お酒つよいなぁ。こんなに食べたら酔いそう」
言いながらも、さらに手を伸ばす。物を取る動作ひとつにしても、優雅な雰囲気があるのはなぜだろう。指先の通る軌跡に無駄がない。
これだけ一緒の時間を重ねて、昼間だけとはいえ独り暮らしの家を行き来して、なのに一線を越えるどころか軽いハグすらできなくて。手をつなげるようになったのだって付き合いだしてから半年もかかってしまって。だというのに葉月は手をつなぐ前から、変に意識してしまって告白の前よりぎこちないデートをしていた時から、こんな手の込んだお菓子の準備をしていた。
葉月は僕なんかよりずっと、この恋人関係を支えている。昨日今日の話じゃない。
たとえば初めて二人きりで話をしたとき、名前の由来を教えてくれたこと。葉月って八月でしょ、わたし九月生まれなんだけど。旧暦だとちょうど葉月、八月にあたる時期なんだって。それから僕の誕生日を訊ねた。月は違うけど日はいっしょだね、と少しばかり盛り上がった。
ある秋の日、見慣れないネックレスのことをきくと母親からの誕生日プレゼントだと答えた。誕生石のサファイア。きみの誕生石、ルビーでしょ。実はおんなじ鉱石なんだよ。コランダムっていう石で、不純物によって色が変わるんだって。赤いのがルビーで、それ以外がサファイア。でもサファイアって青のイメージだな。
記憶の中から響く葉月の声を止める。
三つ目のチェリーボンボンに伸びようとしている手をそっと握った。変わらずなめらかな手触りをしていた。
「葉月、好きだ」
「知ってるよ。わたしも好き」
「突然で申し訳ないんだけど」
「なぁに」
「キス、してもいいかな」
葉月はこらえきれないように笑い出した。
「もうちょっとロマンチックな台詞はないの? でも、らしいと言えばらしいよね」
お互い呼吸を整えて仕切り直し。ようやく触れ合った唇はキルシュよりも熱く、さくらんぼよりも瑞々しく、チョコレートよりも甘美だった。一瞬よりは長かったと思うけれど、ひと呼吸よりは短かっただろう。触れても壊れてしまわない関係性が今はただ嬉しかった。
「わたしね、初めて、だったんだ。正直、これで合ってるのか分かんないけど」
「あってるとか間違ってるとかあるのかな、そもそも」
完璧ではなかった証拠に、葉月は僕の唇に付いた口紅をティッシュでごしごし拭っている。
「でもさくらんぼを漬けるときから決めてたの。バレンタインに綺麗なチェリーボンボンを作れたらきみにキスしてもらうんだって。怖がってばっかりじゃなくて、もっと深くきみに恋したいって」
アルコールよりも早く言葉に酔ってしまって、途方もない間違いを犯す前に家路につくことにした。葉月は、生真面目だねと苦笑しながら残りのチェリーボンボンを袋に詰めてくれた。
帰り道、鼻腔に残ったキルシュが香る。暮れかけた空に一番星が輝いていた。
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