はじめてのケーキ

 プラスチックの回転台に指を添え、軽く息を整える。スポンジは苺と生クリームを挟んだ状態でデコレーションを待っている。半端に生地が見えている今は、たぶん制作過程でいちばんみっともない。

 固く立てたクリームを上に落したとき、ゆいにシャツを引かれた。腰のあたりから見上げてくる娘に合わせてかがみこむ。


「ねぇおかあさん、あのね、お願い」

「今日は味見なし。唯ちゃんのお誕生日だからね、あとでのお楽しみ」

「ううん、ちがうの」


 もどかしそうに指を絡めるのをただ待つ。言葉を重ねて問われるのが嫌いなのは、最近気づいたことだ。時間がかかっても、求めている言葉は自分で見つけられる。


「唯もケーキやりたい」


 さっきから落ち着かない様子だったのは、やってみたいのに言い出せなかったからだろうか。食べたくてそわそわしているのだと思っていたけれど。


 待っていてね、と小さな肩に触れる。用意するのは赤いギンガムチェックのエプロン。これは私の祖母、唯にとっての曾祖母が幼稚園児だった私に作ったものだ。青が良かったと駄々をこねて困らせたのは今でも語り草になっている。祖母の精一杯の工夫で、名前の縫い取りはくっきりと青い。

 クレヨンの十二色のそとに無限の色が存在すると知るようになって、私の好きな色は赤でも青でもなくなった。唯の好きな色は水色、あと二十年したらどう変わるだろう。


「ね、ママ。『ちば さやか』ってだれ?」

「ママの名前。ひいばあちゃんが縫ってくれたの」

「うそだよ。だって名字はわたしとおそろいのはずだもん、家族だから」

「パパと結婚して家族になったから、お揃いになったの」

「ふぅん、へんなの」

「変でしょ。でもそういうふうになってるの。さて、始めようか。まずはスポンジが隠れるように、クリームを塗ります」


 あまり脱線が長いとクリームがだれてしまう。椅子の上に立たせると、キッチン台はちょうどの高さになった。パレットナイフを握らせて説明する。外から手を添えながら、ゆっくりと回転台をまわす。生クリームが広がっていく。

 ママはどいてて、と指令が飛んだので一歩離れる。大人用の道具ではどうしても重くてなめらかに動かせない。一緒にやろうか、という申し出も頑なに拒まれる。


「もういい。きれいになんないもん」


 駆けだそうとする唯を抱き上げて、ナイフを取り上げる。椅子がガタンと音を立てて冷汗が出る。子どもってこれだから目を離せない。ソファでクッションの上に丸まったのを確かめて、もう一度ケーキに向かう。


「ママばっかり上手でずるい……」

「ずるくない。いっぱい失敗して上手になったんだから」


 反応はない。滑らせたパレットナイフは皮肉のように正しい曲面を作る。


* * * * *


「唯、食べないのか」


 夫の声に、渋々フォークを取る。初めの小さい一口が、次には頰を汚すほどの大きさになった。むすっとしたままケーキだけが減っていく。


「唯ちゃん、おいしくない?」

「おいしいけど、嫌い」

「……それね、たぶん『悔しい』っていうよ」


 意地悪な質問だったかもしれない。クエスチョンマークを飛ばしている夫には後で説明するとして、唯の口元を拭いながら埋め合わせを考える。

 大丈夫、悔しがることだったら私の方が何十年も先輩だから。


* * * * *


「今日は唯ちゃんに最初っから作ってもらうからね」

「ほんと? できる?」


 先日の苦い初戦で自信喪失ぎみの唯にエプロンをかける。ケーキはケーキでも、今回はパンケーキにしてみた。失敗しても作り直しに時間がかからないし、冷凍してパンがわりに夫の朝食に流用してもいい。何より簡単で、力もいらない。


 まずは小麦粉をはかる。電子秤にボウルを乗せて、風袋のボタンを教える。ゼロ表示が出たら百グラム。スプーンを使わせたけれど、キッチン台は粉まみれになった。


「次にベーキングパウダー、小さじ一杯。小さじはこれね。山盛りにして、スプーンで平らにするの。こぼれちゃってもいいから」

「なにこれ、甘い?」

「あっ舐めちゃだめ。焼くとぷくぷく泡が出て、ケーキが膨らむの」


 量ったら小麦粉と合わせていったん脇に置く。

 次は卵だ。おっかなびっくり台に叩きつけること、何回か。黄身こそつぶれたけれど殻はほとんど入らなかった。箸で除けば十分に使える。上出来だ。


一度手を洗わせて卵を溶いてもらった。泡立て器がカシャカシャと鳴る。不規則なのはご愛敬。


「今度はお砂糖、大さじ一杯。ベーキングパウダーとおんなじようにしてね」


 今度は自信たっぷりに砂糖を量りとってくれる。思わず微笑んでしまう。いや、にやけてしまうと言うべきか。

 砂糖を加えてさらに混ぜる。溶けたら次は牛乳だ。百二十ミリリットル、実験よろしく神妙に計量カップを睨みつけていた。私が作るより誤差が少なそうである。こちらも卵液に加える。


 粉はふるいにかける。唯はと言えば踊りながら篩を叩き、もっとやりたいと言い出す始末。


「雪みたいでたのしいんだもん」

「もっとやりたいならまたあとでね。ほら、混ぜるよ」


 なめらかになるまで普段より時間が掛かった。それでも生地は出来上がって、いよいよフライパンを熱する。火加減は大人の仕事として、お玉を持った手を上から握ってそっと流せば、しばらくは観察となる。

 気泡が上がってきたらフライ返しの出番だ。さん、にい、いち。勢いあまってフライパンのふちへぶつかったけれど、なんとか中央へ戻す。周りについてしまった生地は焦げないように外して。


 一枚目はやや焦げが強かった。吹っ飛んだ影響で形も丸には程遠い。


「練習、する?」


 力強くうなずいてくれたから、午後の時間は全部パンケーキに捧げた。二人して味見でお腹がいっぱいになって夕飯は流れた。栄養面では悪い大人の見本である。


* * * * *


「へぇ、唯が焼いたのか」


 焼きムラのあるパンケーキを切りながら、夫は目じりを溶かしている。愛娘の手作りは妻の手抜き料理よりよほど希少価値がある。私とてそうだと思うが腹は立った。


 こっそり決意する。明日の朝のおかずは無し、パンケーキのみだ。余力がなくて手を出せなかったデコレーション用の生クリームと苺も出さないことにする。取っておいてまた唯とお菓子を作ろう。ババロアがいいかな。

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