かの夏の青を求めよ
真っ赤なびろうどのソファには、歴代の客が落とした煙草の火でいくつも穴が空いている。真紅のマニキュアをした白い指で焼け焦げに触れ、マユこと牛田繭子はまだ酒にも煙草にも焼けていない声を、痩せた壮年の男にかける。大半の男性には古びたソファの赤と高価なコスメの赤の区別がつかない。彼女はそうした事実に直面したこともなく、応対には危なっかしいほどの初々しさが残る。幸い数回の訪問で男はマユへ穏やかな親しみを見せており、ママもさほど心配せずに常連客とグラスを合わせている。
彼女は無邪気に今日の出来事を訊ねる。男は素性どころか自分のことを全くというほど喋らなかった。彼女も答を期待せずに話していた。なのにこの時ばかりは質問で返しも、はぐらかしもしなかった。
「あぁ、もはや日課ではあるけれど」
鞄から出されたのは、使い込まれたスクラップブックだった。丁寧に広げながら男は続ける。
「青を集めているんだよ。作ることは諦めたんだけど。未練なのか、罪悪感なのか。こればかりはやめられなくてね」
どこか気取った話し口は普段と変わらず、けれど無意識にか続きを求めて舌は唇を舐める。聞いてほしいのだとわかると、マユは怖々と先を促した。
細長い雑居ビルばかりが並ぶ殺風景な街だった。傾き始めた太陽が路地にランダムな縞模様を落としている。人だかりに目を止めてから、男はそれが自分の目指す場所だと気づく。二階にある彼のアトリエに直接通じる細い階段である。中心にはやけにカラフルなオブジェが転がっている。リンゴにネギに肉のパッケージ、大衆的な調味料のポップな色づかい。ほっそりとした腕を投げ出して、女が一人倒れている。静かに閉じた瞼に黒髪がひと筋かかっていた。柔らかく曲線を描く後ろ髪を縁取るように、どろりとした赤が影を落としていた。警察が駆けつける前に、男は
それから絵筆を持てなくなった。手慰みに鉛筆やパレットナイフを折った。未使用のカンヴァスを破った。彼女の肖像に初めて手をかけるとき、手はおそろしく震えた。ラフスケッチにすぎないのに。迷いつつ表面に指の腹を滑らせる。鉛筆の粉が皮膚を汚す。
その時ドアが激しく開いた。
「おい、何があった。話せ」
大学時代の匂いを残した旧友が、険しい顔で立っている。
男の前に彼女が現れたのは、ある夜のことだった。パンツスーツにポニーテールを揺らしてバーに足を踏み入れる後姿は、かつての制服姿に奇妙なほど重なった。
「先輩……、せんぱい!」
慌てて叫ぶと、あっさり彼女は振り向いた。男の名を呼び、懐かしいねと笑う。ちょうど一人だし、と誘われるまま、彼女が入ろうした店で呑んだ。名も知らないカクテルを傾けて男はひたすらに語った。あの夏からずっと彼女へ憧れていたこと、あの日をいつも鮮烈な青として思い出すこと、今でも多大なインスピレーションを彼女の残像から得ていること。大学で油画を学んだこと、最近公募で小さな賞を取ったこと。
聞き終えてから、彼女は短く身の上を話した。大学を出て地元の会社についたこと。やっとささやかな案件のリーダーを任されたこと。
「ねぇほら、つまらない人間だよ。私」
自嘲気味に言った手を、男は思わず握った。のちに彼女は男のモデルとして共に暮らし、男の貧しさを補い心を支えた。けれど彼女を喪ったとき、彼は彼女に触れたことを悔いずにはいられなかった。平凡な幸せから非凡な不幸へ。亡くなったのは確かに事故だったが、本当なら今頃あたたかな家庭でも持っていたはずだと。
窓をいっぱいに開けていても、教室に染みついた油絵具の匂いは大して薄くならない。板パレット片手に巨大なカンヴァスに臨み、しかし彼の意識は背後の友人に向いていた。友人であるところの
「お前の絵具、青ばっかだな」
「悪いかよ」
「信念があってよろしいんでないの?」
からかう調子で視線を投げる。言う通り、彼のアクリルボックスの中には目立って青色のチューブが多い。浅葉はリコーダーで自らの肩を軽く叩きながらまた口を開いた。
「庶民にも藍が普及してたからな、日本人には馴染みが深いしな」
「擁護になってんのか、それ」
「さぁね。それより俺は拘る理由が知りたい。自由課題じゃ専らそれだろ」
指差すのは彼のカンヴァスだ。いつも飽きもしないで青を広げる彼の絵。微妙な色合いで一日中悩むこともあった。
「浅葉になら言ってもいいか……あんま言いふらすなよ」
こう見えて口は堅いぜ、と浅葉は請けあった。
夏休みの日差しに焼かれる校舎を飛び出して、二人は裏山へ登る。ローファーに夏服のスカートを翻し、先輩は健やかな脚で駆けていく。彼はその背中を息も絶え絶えに追いながら、ちらちらと目を射る木漏れ日に耐えていた。雑木林の中でも真昼の暑さは厳しい。流れる汗がシャツを濡らしていく。
頂上に行き着いた先輩は古い文庫本を左手に掲げてみせる。そこはもう開けていて、白いブラウスは痛いほど輝いている。その先にはプールしかない。一般開放はされておらず、水泳部は大会で不在だ。一応、彼らも部員ではあるが留守番を言い渡されていた。怪我で出られない先輩と補欠最下位の彼。彼女が時としてとんでもない無茶をするのはよく知られていて、顧問は彼を見張りを言い渡したのだった。とはいえ後輩ごときに止められる彼女ではなく、いまも器用に片腕でフェンスをよじ登っている。
「危ないですよ」
「君もおいで。貸し切りだよ」
透き通った水がきらめいている。人工的な青が雲ひとつない空に映える。プールサイドに寝転んで先輩は日に焼けた文庫本を開いた。靴下もローファーも脱いで、足先で水面を蹴る。彼はまだフェンスを越えられずにいる。首筋がじりじりと熱されていく。
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