12.ステープラー・深海・鬼(九題噺:蝋・塔・酔い・ボタン・山・新人)

 お風呂は広くて心地よかった。柔らかな布団に沈めば、物を思う間もなく深海ほどの眠りに落ちる。普段より床に就くのが早かった。だからだろうか、目がさめたのは夜明けだった。蒼ざめた冷たい空気の中で、頭は妙に軽く冴えている。節分で豆をまいた翌朝のように、あるいは初日を浴びて家に帰る元旦のように。鬼とかそういう邪なるものは、みんな私から出て行ってしまったみたいだ。

 思えばずっと身体の芯が重くて、頭はずっと酔っ払ったみたいで、目なんてちゃんと見えていなくて。だから、こんなにクリアに世界を感じるのは久しぶりだった。障子を開ける。身を乗り出して、木立の先の遠景を見る。山の端が白く輝いて、月は淡くなりつつある。昨日は気づかなかった尾根沿いの鉄塔が、銅版めいた細い線を引き連れて並んでいる。

 無意識に指が畳をなぞっていた。描きたい。電気はつけないで、布団の中で手探りでパジャマのボタンを外す。着替えたところで夜は明けきっていない。職場に早く着きすぎた新人のようにかしこまって座っていた。じっとしていたら、さら、さら、と衣摺れを聞いた気がした。確かめたくて廊下へ滑り出る。音は隣の部屋からしていた。かすかに、ものが焦げるような匂いがする。そっと襖を引いた。夜明けは奥の障子を青く照らして、女性のシルエットを浮かび上がらせていた。座卓の上に和蝋燭が一本燃えている。彼女がゆるりと動作するたびに、炎が揺れる。和服をまとったその人は、柔らかに踊っていた。凛と張りつめた佇まいは、間違いなく奥さんだ。

 息を呑んだだけで奥さんは私に気づいた。身のこなしはあくまで日常のものに戻る。

「あら、早いのね」

「目がさめてしまって。日本舞踊ですか」

「お恥ずかしいわ、ちゃんと習っていたのはずいぶん前だから……」

 私の目には魅力的に映ったけれど、奥さんにとっては恥じらうようなことなのか。乏しい光の中で、あまりに幻想的、いや妖艶にすら感じた。もしくはだからこそ見てはいけなかったのだろうか。綺麗でしたよ、とは言えなかった。

「あの、今日は出かけようと思って」

「ご案内しましょうか」

「場所を教えて下さるだけでいいんです。山の方に神社があるって聞いたんですけれど、そこに行きたくて」

「わかったわ。歩いて行けるから、朝食を済ませたら道を教えましょう。ただ、最初は一緒に行かせて。今の時期はほとんどひと気ないの。向こうで別れてもいいけれど、日のあるうちに必ず戻ってきてちょうだい」

 深く頷いて、はいと答える。預かられている手前、めったな真似はできない。

「あ……それから、欲しいものがあって」

「えぇ、なんでもおっしゃって」

「紙をいただきたいんです。スケッチブックを売っているお店があれば自分で買いたいんですけれど、なんでも構わないので。チラシとかでも裏が白ければ」

 スケッチブックや画材は一通り持ってきたが、一日中描くにはどうしたって足りそうにない。奥さんはしばらく考え込んでいたけれど、待っていて、と廊下へ出て行く。帰って来たときには、両手に抱えるように紙束を持っていた。てっぺんにはパステルカラーのステープラーが載っている。ちょっと場違いな感じだ。

「私たちじゃあまり活用できていないの、使ってちょうだい」

 いたって普通のコピー用紙から、肌触りの良い和紙まで。地層のように重なったそれはまさに宝に見えた。ただ、ステープラーは返却した。

「クリップは持ってますし、綴じる時は紐を使いますから。アルミの針じゃせっかくの紙がもったいないので」

 奥さんはひとしきり笑って、朝食の準備に立った。私も手伝おうとしたらお客様だから、と断られた。いつまでもお客さんでいるつもりもないのだけど、と言えば、じゃぁ明日からね、と目を細める。奥さんの表情は豊かでいて濁りがない。いくらでも見惚れていられそうなほどだ。

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