第4話「月光」

 それから。


 杜鵑はあらゆる手を使って様々な食材を志明の食事に並べた。それが功を奏してか、残される量は次第に少なくなっていった。そのうえ温暖な地とはいえ、次第に寒さが増してからも、志明が寝込むほど体調を崩すこともなくなり、杜鵑はますます張り切った。

「明日は何を作ろうかなー」

 雲一つない見事な満月の夜。天上に上がった月が、余すところなく敷地を白く照らし出している。杜鵑は父を起こさないよう庭に広げた敷物の上でせっせと針仕事をしていた。志明の綿入れを作るためである。寒さがお身体に障る前に一日も早く仕上げたい――その思いがなかなか杜鵑を眠らせず、月が明るいことをいいことに、それならいっそと庭に出る毎日である。温泉が出るおかげで地面が暖かいため、夜が更けているとはいえそんなに寒さを感じない。一心不乱に針を動かしているせいでもあるだろう。睡眠が不足しているはずなのだが、それを苦痛と感じない。

 糸をつぎながら、杜鵑はふと目を上げる。母屋の端で壁にもたれた杜鵑の十歩ほど先に離れがある。離れの東側は、志明が使う部屋だ。白々と照る地面に、扉の下から細く漏れる暖色の明かりが見えた。

「私も頑張らなくっちゃ」

 杜鵑は再び手を動かし始める。頑張れば、明日にはお渡しできそう――思ったとき、キイッとひそやかな音とともに、東の扉が開く。

 姿を見せてはいけない! 里竪の言葉が耳に蘇り、杜鵑は慌ててそこから逃げ出そうとする。しかし手にした書に集中しているからか、志明は杜鵑の目の前をスッと通り過ぎた。通りすがりに漏れ聞こえる声。どうやら四十万字は覚えなければならない経文の暗唱をしているらしい。

 やがて、母屋と離れ、厨房に囲まれた敷地の中央に植えられた桃の木の前で、志明は立ち止まる。杜鵑に背を向けたまま何事かを唱え続けている。母屋に戻らなければ――そう思った。だけど背筋の伸びた立ち姿が美しくて、絶えない低い声が何故か耳に残って、もうしばらく、ここにいたいと杜鵑は思った。息を詰めてその姿を見ていた。もう少しだけ。

「喜怒哀楽之未発、謂之中。――杜鵑」

 音が消えた。だけど耳に残る余韻が自分の名であると気付いた杜鵑は、「はいっ!」慌てて立ち上がった。

「いつも行き届いた食事をありがとう」

 杜鵑に背を向けたまま、経文を呟いているのと同じ調子で志明は言う。

「手にしているのは、私のものだろうか。色々とやっかいをかけ、本当にすまない」

「たいしたことじゃありません。私にできることがあったら、おっしゃってください」

「――では、字は読めるか?」

「? はい。一通りは」

「ならよかった」 

 そう言うと、志明は手にしていた書を、目の前の枝にひっかける。地面に、枝先にぶら下がった書の影が揺れた。

「暗唱の相手をしてもらえないだろうか。黙々と机に向かっていると声を出したくなるのだが、疲れて寝ている里竪を起こすのはしのびない。だから」

 そう言うと、木の前からすっと離れていく。杜鵑は慌てて立ち上がり、枝にひっかけられた書を手に取った。と同時に、声が流れてくる。杜鵑は手にした書を必死に目で追い続ける。喉の調子を整えるため時折声が途切れるたびに目を上げると、時に月を見上げ、時に足元を見つめながら、ゆるゆると庭を歩く志明の姿があった。まとう白衣が、月明かりを吸い込んだかのように光り輝いていた。


「今晩は『お酒』を召し上がりたいそうだ。ゆっくりお休みになられたいと」

 食器を提げてきた里竪に言われ、「分かりました」と努めて平静に答えながら、杜鵑の心は躍っていた。それは「今晩、暗唱の相手をして欲しい」という合図だったからだ。 

 その日は、夜は離れで過ごす里竪に用意した酒を渡して母屋に戻り、早々と床についている父を起こさぬよう針仕事をしたり、翌日の食事の下ごしらえをしたりして時を待つ。

 頃合を見て庭に行くと、書を手にした志明が木の前に立っている。杜鵑の姿に気付くと、書を枝にひっかけて志明は歩き出す。月のない夜は、志明が持ってきた蝋燭の火を頼りに書を見た。杜鵑に目を向けることなく多量に呟かれる経文にときおり、

「今日の緑豆粥は本当に美味しかった」や「綿入れがとても温かい。しかも軽くていい」といった一言が何気ない様子で挟み込まれる。面と向かって会話することはないけれど、自分の行為をきちんと受け止め、飾り気のない短い言葉で礼を言ってくれる志明の心遣いが杜鵑にはとても嬉しかった。

 ――ああ、やはりこの方は変わってない。


『「合格するように勉強するだけです」とは謙虚でいらっしゃる。他のご兄弟のように「必ず科挙に合格し、家を再興してみせます!」といった気概が志明さまにもあれば』

 蔡の本家で、家人たちがそう噂しあう姿を何度か見かけたことを杜鵑は覚えている。思ったのだ。あの方は嘘をつかないようにしてるんだと。誠実な人なんだと。

 だってみんなは言ったのだ。「お母様はすぐに良くなるからね、いいこにしているんだよ」と。笑顔で励ますように、ときに涙ぐんで私の頭をなでながら。だから私は、母さんの病気はきっと治ると思っていた。だけど私を励ました人たちが、陰で噂し合っていた。

「あんな下級役人に嫁ぐから苦労して病気になっちゃったのよ。まあ先代が気まぐれに手をつけた下女の娘だから仕方ないけどね。それでなくても弱ってる体で子どもなんて作っちゃって。あの顔色じゃ長くないわね」

 それは目を潤ませて頭をなでてくれたおばさんだった。「しかもせっかく産んだのが器量のよくない娘ときた」と笑うのは、「いい子だ」とよくお菓子をくれた、おじさん。

 涙も出なかった。大人はみんな嘘つきなんだと思った。だから。

 だから一族が会する晴れやかな場でも、どんなにみんなが賑わっている中でも、ひっそりと部屋に戻っていく志明の後姿は、ゆるぎないものに見えた。いつも変わらないその姿こそが、信じていいもののように思えたのだ。


「そろそろ頁を捲る頃合だと思うのだが」

 はっと目を上げると、志明が立ち止まっている。そこで杜鵑は、自分の役割を放棄していたことに気付く。「申し訳ございません」と繰り返しながら、慌てて頁を捲った。

 何事もなかったかのように志明が歩き出す。再び低く優しい声が杜鵑の耳に流れ込む。

 ――ああなんて、穏やかな時間なんだろう。ずっとこのままでいたい――。

 だが。

「来週、迎えが参ります」

 蔡家から届いた手紙を手に、里竪が父娘にそう告げた。年明け早々の本試は来月、ならば近々迎えが来るのは分かっていた。はずだ。

 なのに割り切れない自分に、杜鵑は戸惑いを覚えていた。どうしてなのか分からない。

 最後はせめてお好きなものばかりを作ろう、都でも使ってもらえるものを拵えよう、と思ったものの、用意できる材料は地味なものでしかなく、都にいけばもっと素敵なものがあるはずと思い至り、結局はいつもと変わらぬ日々が続く。

 志明も帰ることを知らないんだろうか? と思うくらい様子が変わらない。暗唱に付き合わせながら、杜鵑に対して口にするのは、食事と衣服の短い礼だけだ。

 そしていよいよ志明が都に戻る前日。

 見事な満月が、余すところなく敷地を照らし出している。ほんのりと色づき始めた桃の木の下で書を手にする杜鵑の周りを歩きながら、志明は歩きながら経文を唱え続けた。

「杜鵑」

 経文の途中で名を呼ばれる。いつもなら区切りのいい章末に声をかけられるので、杜鵑はわずかに驚きを感じならが、「はい」と答えた。すると志明は足をとめ、杜鵑に向き直る。ここに来た日以来の対峙だった。

「今まで本当にありがとう。おまえのおかげで、何の憂いなく書に向かうことができた。――礼といってはなんだが何かを返したい。望むものを教えて欲しい」


 ――望むもの――。


 心で呟いたとたん胸がつまった。

「一晩、考えさせてください」

 どうにかそれだけを言った。志明は頷き、

「分かった。では明日」

 そう言って、再び歩き始めた。


 翌日。

 蔡家からの迎えは、日が昇りきる前にやってきた。車輪の音が次第に大きくなっていくのを感じながら、杜鵑はどうしても部屋から出られずにいた。

「起きられるか? 間もなく馬車がつくぞ」

 硬く閉ざしていた自室の扉を、父が叩く。杜鵑は何度か咳払いをし、

「どうやら風邪をひいてしまったようです。少爺にうつしては大変ですから、どうぞお体にはお気をつけくださいとお伝えください」

 静かな月夜に、志明の声と足音だけが流れるあの時間。あんなに嬉しい時間が今までにあっただろうか。ずっと傍にいたいだなんて、身の程を知らない願いを断ち切れない自分が、少爺の門出を汚すことはできない。杜鵑は心に決めた。あの月光に立つ美しい姿を胸に抱いて、明日からまたここで生きていこう。

 「ならば仕方ない」と父が去り、やがて馬車が到着したのか門口が騒がしくなる。行ってしまわれる――そう思ったら、飛び出していきたい衝動に駆られる。杜鵑は固く目を瞑り耳を塞いで、立てた膝に顔を埋める。

「杜鵑」

 その声に、肩が跳ねる。戸口の向こうからの声は、間違いなく志明のものだったからだ。

「起きているなら開けてくれないか」

「風邪がうつります。無礼お許しください」

 声が震えるのを、もう止めることはできない。ドンっと強く扉が叩かれた。

「風邪だなんて嘘だろう」

 低い声。

「――嘘じゃありません。本当です」

「では何故泣く」

「喉の痛みで声が変なんです」

「とにかく少しでいい、姿を見せてくれ」

 ああ……杜鵑は天上を仰いだ。

「――夕べおっしゃっていただいたお願い、どうぞ聞いてください。どうぞこのまま、すぐにお立ちください。それが私の願いです」

 長い――長い沈黙。

「――分かった」

 遠ざかっていく足音。やがて再び門前が賑やかになり、父と志明が別れの挨拶を交わす声が杜鵑の耳に入る。そうして馬車が動き出し、しだいに遠ざかっていく。言いようのない喪失感に杜鵑は一人、静かに泣き続けた。

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