第2話「再会」


 それは半年前。重陽を過ぎたばかりのころのことだ。

 突然の来訪者は蔡家からの使いだった。

 蔡家は科挙合格者を多数輩出し、権勢を誇っていた名家だった。だが高官に就いていた先々代・先代と、合格間違いなしと思われていた嫡男を流行り病で立て続けに亡くしたことで、都では珍しくない没落貴族の一つになりさがっていた。

 蔡家の血を引く母が亡くなり、父娘でこの田舎に引っ込んで以来、十四年も没交渉だった。蔡家に続いた不幸も全て風の噂で耳にしたくらいだというのに、どうして今さら?


志明しめいさまが我が家へ?」 


 使者を乗せた車が慌しく去っていく音を聞きながら、杜鵑は父に尋ねる。父は頷いて、

「科挙の予備試に合格されたとは、誠にめでたい。しかし年明けの本試を前に、お体を悪くされたというのは心配だな。予備試は足を伸ばして寝られぬほど狭く、体が腐るかと思うほどじめっとした独房に三日間閉じ込められて行われるそうだからな。無理からぬ」

 三年に一度行われる科挙は、合格すればその出自に関係なく国の中枢に関わる高官となりうるため、相当に難易度の高い試験だった。それなりの家の子弟はみな幼少の頃から試験対策を始めるが、なかでも最難関の進士科は五十歳で合格すれば若いうち、と言われたほどだ。

 最近は二十代前半で合格する天才も多く出ているとはいえ、幾度もの予備試を潜り抜け、最終試験である本試に二十代で臨めるのは並大抵のことではない。

 杜鵑の目の裏に、背筋正しい姿で本を手にする少年の姿が蘇った。杜鵑が都にいた頃、先代たちがまだ存命だった蔡家はそれは賑やかで、やれ生日だ節句だと、なにかにつけ一族が集められたものだが、どんな時でも気づけば彼は人の輪から外れ、本を読んでいた。

「これからますます厳しくなる寒さが、お体に障らなければよいのですが」

 娘の言葉に、父はそうだとばかりに頷き、

「だから今回の話なのだろう。現当主である志明さまの叔父貴や兄上たちはいまだ予備試さえ通らないありさまだし、志明さまの弟君たちはみな幼い。蔡家再興を一身に負われた大切な御身、暖かいところで過ごさせようとなったところで、我々のことを思い出されたんだろう。ここらへんは温泉のおかげで温暖だし、我々も蔡一族の端くれだからな」

 自嘲気味に笑う父を、杜鵑は複雑に見た。

  

 そうして庭の菊が散る頃、志明はやってきた。世話係である乳兄弟の里竪りじゅを伴って。

 色の剥がれ落ちた粗末な馬車に、上質だが着古し感の漂う着物、勉強道具以外はなさそうな少ない荷物――あれほど隆盛を誇った名家の驚くほどの凋落ぶりを目の当たりにして、父娘はしばし言葉を失う。しかし。

 ゴホンゴホン、いささか芝居がかった咳払いに目を向けると、志明の背後に控えた里竪が父娘を睨みつけていた。

 二人の心のうちを見透かし咎めるような鋭い視線に、先に気を取り直した父が祝いの言葉を述べ、杜鵑も慌ててそれに倣った。それに対し、志明は丁寧に礼を述べ弱弱しく口元を歪める。恐らく笑いかけたつもりなのだろうけれど――生気のない姿に、杜鵑の眉間は自然と曇る。記憶している十年余前の姿よりずっと背が伸びていたが、細さはそう変わらないように見えた。顔だけでなく袖から伸びる長い手も青白い。蜻蛉が飛び交う爽やかな秋晴れに、あまりに不釣合いな痛々しさだ。

 沈痛な思い捕らわれ自然と垂れてしまった頭に、声が投げかけられた。

「久しいな、杜鵑。面倒をかけるがよろしく」

 驚いて顔を上げると、志明がまっすぐに杜鵑を見ていた。ふと細められた目に、自分との日々を懐かしんでる温かさが見て取れた。


 ――覚えていてくれた!


 暗く沈んでいたはずの杜鵑の胸が、驚きと喜びでたちまち高鳴り出す。自分たちが都にいた頃ですら、年に数度、一族の集まりで志明さまが部屋に篭ってしまう前の僅かな時間、顔を合わせるくらいだったのに。

「どうぞ中へ。お身体が冷えますゆえ」

 志明を案内する父に続こうとした杜鵑をさりげなく前に立ちふさがった里竪が止めた。浅黒く焼け幅のある体は武人さながらで威圧的、礼節正しい書生風の主とは真逆だ。

「――何か?」

 不躾に眺め回す視線を咎めるように杜鵑が声をかけると、男はフンと鼻を鳴らし、

「紅もさしていないのか。まあ、こんな田舎では見せる相手もおらんだろうからな」

 ――乳兄弟というのなら、七つ年長の志明さまと年は変わらないはず。なのに若輩の自分はともかく、年長の父にまで無礼かつ冷淡な視線を向けてくるなんて! 昔、蔡家で顔を合わせた可能性はあるけど、ほぼ初対面といえる相手なのになんなの、その態度!

 思いそのままの強さで、杜鵑は男を睨みあげた。すると男はニイっと口角を上げ、

「だがそれでよい。少爺わかさまは大切な御方、田舎で間違いがないよう、大爺だんなさまから言いつかってきたのだが、まあ、その心配はなさそうだ」

 しとやかとは程遠い杜鵑の振る舞いを気にする様子もなく、ただ安堵の息を吐く。杜鵑はさらに眉を吊り上げるが、反して里竪は、固く引き結んでいた眉を、ゆっくりと解いた。

「今日からやっかいになる。ちなみに少爺は胃が弱いから飯は柔らかめで頼む。辛いものもダメだ。椎茸は召し上がられない。ダシに使うのもダメだ。他にお嫌いなものは――」

 いつ終わるの? と訊きたくなるほど多くの食材が羅列される。

 「えっと椎茸と大根と、茄子と……」オロオロと反復する杜鵑に、

「何というかその……繊細なお方なのだ。その――やっかいなことも多いかと思うが、少爺の合格のため力を貸して欲しい。頼む」

 先ほどの尊大な態度から一転、里竪がそう言って頭を下げるものだから、杜鵑は大いにうろたえた。大の男が、嫁き遅れた自分に頭を下げるなど、まったくありえないことなのだ。

 どうにか頭を上げさせることに成功し、杜鵑は思った。

 きっと主を守ることに必死で、それ以外は目に入らないんだ。悪い人じゃなさそう。気は利かないけど――そう判断した杜鵑は、「分かりました」と素直に頷いた。


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