今宵、月の庭で

天水しあ

第1話「失恋」

 こんなひどい失恋ったら、ない。


「科挙合格にご婚約とは二重の慶び、いや杜鵑とけん、おまえのことを含めたら三重の慶びだ」

 普段は物静かな父が小踊りしそうなほど浮かれているのを見て、杜鵑は固く結んだ口の角を無理やり吊り上げて、共に喜んでいるという笑顔を作ってみせる。

 そしてひそかに、右手で長裙スカートをぎゅっと握った。何度も洗いさらしたおかげで色が抜け、今、庭で華やかに咲き誇っている桃花の面影が微塵も無い寂れた色になっている。袖も襟も擦り切れ、くたびれてしまった衣装はすっかり自分に馴染んでる。六つのときに越してきてから十四年になる、この、鄙での暮らしと同じように。


 だけど――左手にある、きっちりと折り目のついた手紙は、自分に不釣合いだと杜鵑は思う。まして混ざり物の無い真っ白な紙にふさわしい、気品ある滑らかな手蹟の主は。


 このたびめでたく科挙に合格した。ついては内々で祝宴を開き、そこで長くこの日を待ってくれていた婚約者をみなに披露したい。ついでながら杜鵑にも良縁を紹介したいから、父娘揃って上京して欲しい。近く迎えの車をやる――それが手紙の内容だった。

「大事な受験期に、親のわがままで嫁ぎ遅れてしまった娘を案じる老いぼれの心まで推し量っていただいていたとは。かくも情の篤いお方の元ならばさい家の再興は間違いない」

 高級官吏登用試験である科挙に合格したのだから今後は良縁がいくらでも舞い込むに違いないのに、長年の労苦に報いようとは欲のないことだ……延々と続く賞賛の言葉に、杜鵑は耳を塞ぎたくなった。

「父上、そろそろお支度をされないと。塾の時間は間もなくですよ」

「おお、そうだな。この村からも科挙合格者が出るよう、しっかり教えなければ」

 子どもたちにも見せてやるからと娘の手から紙をさらい笑いながら踵を返した父を、いつものように門まで見送る。ゆるやかな勾配を下って行く足取りは、柔らかい緑を撫でていく初春の風に似つかわしく、軽やかだ。 

 父の姿が遠くなり、杜鵑は家に入る。心と同じ重い足取りで、庭の真ん中に立つ桃の木の前に立った。

 薄紅の枝に透けて見える空は明るい。まるであの御方の前途を祝しているかのよう――そう思ったらとたん、月が白々と照らし出した、背筋正しいあの後姿と、絶え間なく呟かれる低く優しい声が、鮮やかに蘇ってくる。


 ――ああもう、ダメだ。


 杜鵑はその場にしゃがみこんで、声をあげて、一人泣いた。


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