第3話 問うてはならぬ問い

「…っ!」


 宰領府での聴取には音を上げなかった弦朗君が、ついに声を漏らしてしまった。

「もう少し、優しく手当をできんものかな」

 右腕を差し出す彼の視線の先には、不器用に肌を転がる包帯がある。それの操り手は承徳であった。帰邸後、金創などの重い傷は素人で処置をせず光山府の侍医に診させたが、そのほかの軽い傷は自分で手当てすると、彼が言い張って聞かなかったのである。


「柳の若様、私が致しましょうか」

 手当の無様さを見かねたトルグの申し出を承徳は一蹴し、弦朗君に向き直る。

「主君、これらの傷は本来、敏が手当すべきものです。だけど奴はここにいない、だから俺が彼の代わりにしているんです」


 弦朗君は微笑んだ。彼は寝台に折りたたんだふすまを幾つもかさねて、それにもたれかかった状態になっている。

「何だかよくわからない理屈だが……敏を怒っているのか?」

 包帯を手に、部下はきっとなった。

「当たり前です。恐れ多くも主君の御恩顧を塵芥ちりあくたのように投げ捨てたばかりか、脅迫してお身体を損ない、逃げるなんて……しかもレツィンを逆恨みして」

「友人として、許せないかい?」

「あんな不義不忠もの、友なんかじゃ…」

 黙り込んだ承徳を、弦朗君は優しい眼で見ていた。彼は実のところ、敏とレツィンにまつわる「事実」と「芝居」についてまだ承徳に告げてはいなかった。


 ――今は駄目だ。


 敏に対する承徳の誤解を思うと、弦朗君も辛い気持ちになるが、ただでさえ、心が脆くなっている承徳が真実を知って動揺し、結果として敏の逃亡に加担する、あるいは秘密が外に漏れ「芝居」のからくりが破れてしまうようなことになれば、今度は承徳の身まで危うくなる――弦朗君はそう判断したのである。


「彼等は死んでいるか、それとも生きているか……承徳はどちらだと?」

「生きていて欲しいけれども、実際に生きていると信じているけど…!」

 承徳は盥の水に浮かぶ布をぎこちない手つきで絞り、熱を取るため弦朗君の額に乗せたが、それはべちゃ、と音を立てた。

「…まったく、針仕事だけは玄人並みなのに」

 そう言って眉を寄せた主君からびしょびしょの布を外し、丁寧に絞り直したのはトルグである。

「さあさあ、柳の若様。主君のことをご心配なのはわかりますが、ここは私どもにお任せあそばして。主君もお休みにならなければ」

 額を綺麗に拭かれ、布を乗せ直してもらった弦朗君は微笑した。

「ありがとう、トルグ。承徳、ここはいいからもう帰りなさい」

「…主君、本当に大丈夫でいらっしゃいますか?」

 部下は床に跪いた状態で、上目遣いに上司を見ていた。今夜はここの宿直とのいをしたいと言わんばかりである。

 そんなことをされたら、騒がしくなって寝られやしない――弦朗君はつと右手を伸ばして、ぽんぽんと承徳の頭を軽くたたいた。それは承徳の出仕以来絶えて行ったことはなかったが、まだ彼が光山府で見習いをしていた時分に、弦朗君が時折してやっていた「元気づけ」だった。

「子どもじゃあるまいし、心配は無用だよ」


 いかにも後ろ髪を引かれている様子で承徳が辞したあと、トルグは溜息をついて弦朗君を横目で見た。

「…主君は嘘をおつきになって。承徳様も鈍くていらっしゃるのが幸いしましたが。この状態で大丈夫な筈がないでしょう、お見受けしたところお顔が赤くて、熱が高くなっているようですよ。早く侍医からの薬湯をお飲みいただかなければ」

 そう言って差し出された椀の中身を渋い表情で飲み干し、また口直しの生姜の蜂蜜漬けに手を伸ばした弦朗君ではあったが、しかめた顔がもとに戻らぬところを見ると、その原因は何も薬の苦さだけではなさそうであった。


 彼は重ねた衾を脇に押しやって床に臥し、薄暗い天井をぼんやりと見上げる。

 ――呉一思は私への疑いをにじませていた。

 すでに追討の先手は繰り出しているはずだが、瑞慶府から本格的に兵が出ていないところを見ると、まずは安陽公主とその一党を一網打尽にすることを優先にしているため、と弦朗君は見当をつけていた。

 ――それも明日中には決着するであろうから、次には自分にも追討の王命が下るはずだ。


 そうなれば、傷病の身とはいえ従うより他はないが、せめてその場合は蓬莱北道の捜索ならば、と弦朗君は思っていた。敏とレツィンが二廟を無事に越えて逃げ切ることができればそれに越したことはないが、実現の可能性は五分五分、というのが彼の見立てだった。

 ただ、承徳には逃亡の可能性の低い南道を行かせれば、友が友に討たれるという最悪の事態だけは避けられるだろう。自分とて、かつては敏とレツィンの主君であったのだから、部下を手にかけることなど考えたくもなかったが、承徳のことを思うと、万一の覚悟は決めているつもりだった。


 ――二人を承徳に討たせる、あるいは二人が承徳を殺すくらいなら、いっそこの手で。

 弦朗君は、衾の上に投げ出された右の掌を握り込む。

 ――だが本当に、私は彼等を葬り去らねばならぬのだろうか?同じ屋根のもとで暮らし、敬慕のこもった眼差しを向けてくれた敏を、そして煌めく笑顔を見せてくれたレツィンを。


 自分は山号を名乗る王族の一員として、国君に忠誠を尽くし王統を継承することにのみ存在する意味がある。それは十分過ぎるほどわかっている。だが、肝心の王も国も、すでに天から見放されているとしたら?守るべき理由も価値も失っていたとしたら?

 賀宴のとき、レツィンは図らずも烏翠の国運をも左右する決断を担うことになり、選択の結果に恐れを抱いていたが、本当は、彼女の恐れこそ自分たちが担わねばならぬものであった。


 ――彼女に王を助けてくれたねぎらいの言葉をかけたとき、敏は納得のいかぬ顔をしていたが、私の立場では、そう言うしかない。だが、真に討つべきは果たして敏なのか?私が忠義を尽くす対象は、敏を殺してまで守らねばならぬものか?


 しかし、この問いは彼にとって「禁断」の一言に尽きた。抱くことすら許されぬ疑問に苛まれ、傷の存在を忘れた弦朗君がやや乱暴に寝返りを打つと、背中に痛みが走る。


 檀山房が族滅した日にも、母が狂気の淵に陥ったときも、運命を決して恨まなかった弦朗君が、いまはじめて自らの運命を憎んだ。

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