第2話 笑みの刃

 昼下がりから始まり、すぐに済むはずの聴取も、気が付けば陽が傾くころとなっても終わる気配がない。


 弦朗君は呉一思とその部属二、三人と向かい合わせになり、碧雲堂へきうんどうの一角に座していた。そこは宰領府の者達が宮中で控室として使用する場所だった。


 ――何度同じことを言わせる気だ?


 傷の痛みと相まってさすがの弦朗君も苛立ってきたが、まさかそれを表情に出すわけにはいかない。


「…では、恐れ多くも王を襲わんとした賊が弦朗君様を脅しつけたばかりか傷まで負わせ、逆恨みの相手である女官の海星かいせい――例のラゴ族の娘レツィンをさらって逃げた。それに相違ありませんか?」

「先ほども説明した筈だが、確かにそれが事実だ」

「奇妙ですな。邸内にはほかに人がいくらもいたのに、誰も敏やその一味に気づかなかったのですか?」

 弦朗君は首の後ろの急所を撫でた。

「部屋では私と彼の二人きりで、ここに刃を当てて、『声を出せば一突きだ』と脅された。そのような状況で大声を上げて人を呼べと?おまけに明徳太妃様の女官まで人質に取られているときに?」

「…確か彼女は武芸に秀で、王宮で二度も見事な剣舞を披露した腕だと聞いております。なのに、みすみす人質に?」

「彼女とて、あの時は宮中に即日帰れぬほど体調が悪く、しかも丸腰で不意を突かれたのだ。どうしようもないではないか?」

「……」

「自ら賊に襲われる隙を見せ、このような事態を招いた私の不徳については、この身を投げ出して王にお詫びし、罪を償う所存である。しかし、それ以外に問われるべきことはないはずだ」


 答えながら弦朗君はさりげない風を装い、卓の下で左の脇腹に手をやった。ここの傷がじくじくと痛み、熱を持っているようだった。辛抱強く聴取に応じながら、彼は次第に気力と体力が削がれていくのを感じている。


 ――まずいな。

 最初から、事情を尋ねるのが彼等の目的でないことは承知していたが、これは形を変えただけの拷問だ。そう弦朗君が気づいたときには、すでに遅かった。


 たちの悪い弄り方をしてくれる――額に汗が染みだしてくるのがわかり、唇をかむ。


「ご無礼を重々承知でお尋ねしますが、まさか負われた手傷が下手人を逃がすための戯劇しばいということはありませんな?」

 弦朗君の双瞳がきらりと光る。


「よもや戯れに訊いたわけではないだろうが……いったい私を誰だと思っている?光山玉泉君こうざんぎょくせんくんの嗣子にして荘王そうおうの孫、文王の甥、そして現王の従弟の光山房当主である。卿等は忘れたわけではあるまい。私は母の腹を借りて生まれ落ちたその時から、国君と烏翠うすいに忠である」


 口調こそ穏やかだったが、彼の微笑が嘲笑に、そして最後は怜悧なやいばのような笑みに代わったことに、果たして呉一思は気が付いたか否か。


「…失礼いたしました、暴言をお許し賜りたく」

 その呉一思は、表情をぴくりとも動かさない。

「これらの傷が私を潔白とする証明だ。他には何もない」

 最後にそう答え、弦朗君は卓越しに呉一思を見据えた。自分の余力を考えたら、あと一刻も持たない気がする。宰領の佐官は何を考えているか推し量りかねる表情でじっと見返したが、ついに口を開いた。


「…光山様には、体調の優れぬなか長い時間お答えくださり、感謝のことばもありませぬ。どうか、御身お大切に」

 解放された弦朗君は苦痛を髪の毛一筋ほども見せず、優雅に立ち上がる。そして呉一思以下、宰領府の人間達が頭を下げるなか、しっかりとした足取りで部屋を出て行った。


「弦朗君様!」

 柳承徳の声が上がった。殿門を出たとたんふらついた上司を見て慌てて駆け寄り、腕を伸ばして支える。

「…承徳、大きな声を出しては駄目だよ」

 弦朗君は脇を抱えられながら、囁くがごとく叱責した。おろおろする承徳は、とりあえず片手で懐から手巾を出し、上司の額の汗を拭った。


「…いくら待ってもなかなか出ていらっしゃらないと思ったら、あいつ等、弦朗君様をこんな目に遭わせて…」

「だから、声を出すなと言っている。大事ない、事情を聞かれただけだ。連中は私に指の一本さえも触れなかったさ」

 脇腹を押さえた弦朗君は、呻くように言った。顔は青ざめ、唇には色がない。全身を鈍い痛みが覆い、霞のなかに頭を突っ込んでいるように感じられる。

「馬に乗れますか、主君」

 承徳は、引いてきた馬を心配そうに見上げた。

「王宮で私を『主君』と呼んではならないよ。全く、何度同じことを…。それに、乗れるも何も、ここは死んでも乗って帰らねば。悟られては困る…」

 そう、全てをいつも通りに。宮殿に耳目あり、それがたとえ殿門の内であろうと外であろうと同じである。


 鐙に足をかけて馬に乗る瞬間が最も辛く、弦朗君は鈍い痛みに喘いだが、声を殺して馬上の人となった。

 ――この傷をつけた敏の辛さに比べたら、これくらいの痛みなど…。

 あのとき、力を加減していたとはいえ、主人に切りつけ殴りつねり、傷や痣をつけねばならぬ使命に、敏は涙を流しながら耐えていた。彼の震える睫毛やぴくつく肩先、ためらう剣の切っ先を思い出すと、弦朗君も心が痛む。


 いつもならば指呼しこの間に思える帰邸への路も、今日ばかりは千里の遠さに感じた。

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