還魂記 ――翠浪の白馬、蒼穹の真珠 外伝1

結城かおる

第1話 還宮の輿

 ――鳥達は高みへと飛び立った。そしてお前は、あれらを射落としてしまうのか。



「ふう…」

 大きく息を吐いて、光山弦朗君こうざんげんろうくん安国軒あんこくけんに腰を落ち着けた。

 宮中の法度はっと還宮かんきゅうぎりぎりの時刻に滑り込んだ輿からは、レツィンではなく弦朗君が、そこかしこ傷だらけで、おまけに女官の恰好で転がり出してきた。当然のこととして、彼は王宮の人間を仰天かつ困惑させたのであるが、そのまま明徳太妃めいとくたいひと王の御前にまかり出でて「事情」を説明し、激高する王を太妃に任せて自身は退出したところだった。


 ここ安国軒は、王族が王への拝謁などの際に控えの間として用いる部屋である。そこで弦朗君は、駆け付けた柳承徳りゅうしょうとくに手伝わせながら忌々しい女官の服を脱ぎ、明徳太妃差し回しの典医てんいに傷を処置してもらった。そこかしこの傷を拭われて清められるたび、そして薬を皮膚に塗られるたび、飛び上がりたいような痛さが襲うが、彼は声を上げずに耐えた。


「…今は当座の処置だけを済ませておきますが、一刻も早く府にお帰りになり、もう一度医者に診せることです。金創きんそうを甘く見てはなりません」

「わかっている――」

 処置が終わると弦朗君は典医を帰し、光山府から急ぎ届けられた常服に袖を通した。傷の痛みはまだ引かないが、新しく清潔な服に着替えただけでも、心が落ち着くというものである。


「私は馬を引いてきます、いつもの場所でお待ちしておりますので…」

 承徳が小走りに部屋を出ようとしたそのとき、高官が何人か入ってきた。劉仁桀りゅうじんけつ孟舜宇もうしゅんうといった面々で、みな宰領府さいりょうふの部属である。椅子に座っている弦朗君は上着の袷の紐を結びながら、にこりともしない官僚達を見やった。


「…委細はすでに話してあるが、まだ何か?」

「我ら宰領府から、弦朗君様にご事情をお伺いしたいと」

 揃って彼等は一礼したが、まるで傀儡くぐつの動きのようだった。

「事情?誰が私に説明を求めているって?」

「弦朗君様にお話をお聞きすることになるのは、呉一思ごいっしどので…」

 その名を聞いて、彼は眼を細めた。身体のうちにぴりりとした緊張が走る。


 ――これはまた、手強い相手が出てきたな。


 むろん口にこそ出さなかったが、厄介な局面を迎える予感がした。呉一思とは、若いながらも宰領の佐官さかんとなり、いずれ宰領の座に昇ると噂されている切れ者である。彼は王の側近として裏で一連の粛清の糸を引いているとされ、王と慈聖太妃にとってはこの上なく頼もしいだろうが、類を見ぬ酷薄さで、紫霞派しかは――国君こっくんとその実母である慈聖太妃じせいたいひに敵対する官僚の派閥――からは蛇蝎のごとく嫌われ、また警戒されてもいる。


「宰領府はいったい何をお考えか!弦朗君様は脅迫されて手傷を追われ、まだ仮のお手当しかなさっていません。痣だけではなくそこかしこに刃物の傷もありますから、早く処置をなさらぬと、思わぬことも起きかねません。後日に…」

 脇から承徳が相手に食って掛かるのを、弦朗君は無言のまま片手で制した。


「お怪我のこともありますので、長くはお引止めしませぬ。若干のお時間を頂き、事情を伺い確認したいだけでございます。すぐに済みますし、我らに他意なきこと、どうか光山様にはご了解くだされたく」

 そう言った彼等は無表情を保っている。弦朗君は立ち上がって頷いた。


「役目ご苦労、話を致すゆえ案内を頼む。どこへ行く?」

「弦朗君様!」


 なおも抗議の声を上げる承徳を一睨みして黙らせると――他人を睨みつけるのは彼にとって滅多にないことであった――、弦朗君は官僚らに先導するよう促した。


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