Venus_Flytrap

善行

美しき檻

 あぁ、今日も楽しい一日の始まりだな。この世界は良くも悪くも穴だらけだ。だが、それがいい。それでいいのだ。何もかも完璧な世の中なんて、つまらないだろう? 穴のない完璧な世界。それは、すなわち停滞だ。進みもしなければ、戻りもしない。なんて面白みのない。途端に死んでしまいそうだ。そして、完璧であろうとする人間も嫌いだ。人間は完璧ではないからおもしろい……そうだろう? 少々欠点がある方が、可愛げがあるってもんだ。

 

 つまり、簡潔に表すと、僕は穴が好きなのだ。

 

 今日も、僕は一人で鉛筆削りの穴を見つめている。鉛筆削りといっても、自分で鉛筆を回す小ぶりのタイプではなく、卓上に設置して、ハンドルをぐるぐる、ぐるぐると回して徐々に鉛筆を削るものだ。鉛筆削りの穴の奥には、深い深い闇が広がっている。ふと、その穴にどうしようもなく指を差し入れたくなってしまう時があるのだ。その中には、実は現実の世界とは違う、もうひとつの世界が広がっていて、僕はそこで、勇者として、魔王を倒し世界を救うのだ。と、そういうのはどうでもよくて、何が言いたいかというと、穴を通して、まるで美術館で絵画をみるように、現実を切り取って見ているのだ。手で丸を作ったり、ドーナツの穴を覗いてみたり。そんな時、世界はまるで、レンズを通したように屈折する。僕は、独りになれるのだ。誰も入り込めやしない、自分だけの世界で。なーんて、痛い妄想だ。ただ、どこの集団にも馴染めないことを、自分は特別だからと言い訳していないと、誰かを下に見ていないと、不安で不安で、死んでしまいそうなだけなのだ。


「鉛筆削りにそんなに顔を近づけて何してるの?」

 

 突然、背後から声を掛けられた。鈴のような可愛らしい声、どこか弾んでいるような印象のそれは、まるで春の木漏れ日のように温かいものだった。おそらく見目麗しい少女なのだろうと思ったが、僕は振り向かなかった。きっと蛇に睨まれた蛙のように石になってしまうから。


「ただ眺めているだけさ。それがどうかした?」

「それって、楽しい?」


 無邪気な質問に言葉が詰まる。楽しいかと聞かれて、楽しいと即答できるほどの自信が、僕にはないのだ。だってそうだろう? 僕は、僕の嗜好が誰にも受け入れてもらえないことを知っているんだ。


「美弥子ちゃーん。そんな暗い奴に構ってないで、俺たちと遊ぼうぜ?」


 クラスでも関わり合いのない全く別の人種とも呼べるような人間たちだ。


「ごめんなさい。私、先生から学級委員の仕事で吉見くんに用があるの。また今度誘ってね」


 そういってにこやかに声をかける彼女の笑顔には一分の隙もないのだろう。あぁ、完璧すぎて反吐が出そうだ。


「君は嘘がうまいね。どうして、わざわざ僕に声を掛けようと思ったの?」

 

 そう尋ねると、ゆっくりと、耳元に彼女の唇が近づいてくる気配、息がかかるほど縮められた距離に心臓の鼓動は跳ね上がる。彼女の顔は見えない。だが、きっと彼女の瞳には嗜虐的で蠱惑的な火が灯っている。


「あなたも、分かっているでしょう? 私たちはどうしようもなく孤独を抱えている。あなたは拒絶を選び、私は擬態を選択した。だけど、どうしようもなく寂しいのよね? 誰かと触れ合いたくて仕方がないのでしょう?」


 その言葉はまるで毒のようだ。ゆっくりと体に染み渡り、ゆっくりと掴み取るように心臓の鼓動を落ち着かせる。見透かされたと思った。でも、同じ痛みを共有する初めての人間を見つけたとも……。


 僕は振り返って、初めて彼女の顔を見た。艶のある長い黒髪はサラサラと揺れ、小さな顔では、切れ長の瞳が、ひときわ異彩を放っている。星を映したように、キラキラと輝いているが、どこか空虚で老成した雰囲気を持っている。僕は彼女の瞳に魅了されたのだ。


「それで? 僕に何かをしてほしいの?」

「初めて見つけた人だもの。私の話し相手になってほしいのよ。私、周りの人間の顔は霞がかかったように見えるの。その中でも、あなたは、あなただけははっきり見える。これは運命なのよ。私とあなたは、最初から出会う運命だった。だから、あなたにも分かるわ。何も言わなくたって」


 彼女はそう言うと、指で輪っかを作り、ニヤリと鋭い犬歯を輝かせて、いたずらっぽく微笑んだ。


「私も穴、好きよ?」


 彼女は長い髪を揺らしながら、去っていった。きっと、彼女の心にも埋めることのできない空虚な穴がポッカリとあいているのだ。そう確信を得ながら僕は彼女の背中を見つめていた。

 これが、彼女との刺激的なファーストコンタクトだった。




 あれから、彼女とは細々とした交流が続いている。それは、放課後に学校の裏で話をするだけの些細なものだ。相変わらず、教室では一人きり。誰と話すこともなく、身の回りにある、穴のあるものを集めては観察するだけの毎日だ。世間はそれに反して随分と騒がしい。どうやら、数年前に出没していたと言われている未解決の連続誘拐事件の犯人と同じ手口の事件が起こっているらしい。今、僕の教室でも一つの机がまだ見つからない主の帰りを待っている。


「最近、誘拐事件が起こっているらしいよ。僕らのクラスでも一人減っていた」

「そうなの? 知らなかったわ。でも、関係ないもの……そんなこと。ねぇもっと楽しい話、しない?」

「楽しい話、かぁ。ないなぁ」


 僕には面白い話のストックなどあるはずもなく、彼女を退屈させてしまったかもしれない。そんな事を考えながら押し黙っていると彼女は突然、珍しい提案をした。


「ねぇ。私の家に来てみない?」

「えっ? 今から?」


 まさか彼女の方からそう言うなんて思ってもみなかった。


「そう。今から。だめ?」

「駄目じゃない。むしろ行かせてください」


 本当はちょっとした用事があったけれど、小首を傾げる彼女の瞳を見ているとどうでもよくなって、僕は即答した。彼女は柔らかな笑みを浮かべると、僕の手を引いて、学校の裏手の山の中へと歩き始めた。


 その山は、木が生い茂り薄暗く、誰も立ち入ろうとする者はいない。しかし、彼女はずんずんと進んでいく。迷いなく家へと帰宅する子供のように。


「本当にこの先に、家があるのかい? それになんだか臭くない?」

「気のせいだよ、気のせい。考え過ぎだって、私は何にも臭わないし」


 山の奥に入るたび、冷凍庫に入れ忘れたミンチ肉が腐ったような、なんとも言えない鼻が曲がる臭いに僕はハンカチで鼻と口を押さえた。


「ここよ」


 彼女は立ち止まった。それは、異臭の根源とも言える場所。古い洋館だった。僕は突然怖くなった。ここに入ってしまえば、もう戻って来られなくなるかも、と思ったのだ。


「や、やっぱり。用事が……」

「来るよね?」


 彼女は、僕の瞳を覗き込む。彼女の瞳を見ていると、僕はもう何も考えられなくなってしまう。


「はい」


 まるで操り人形のように、僕は彼女に操作される。もうそこには僕の意思はなかった。屋敷の中へと入った途端、ガタリと、扉が閉まる。まるでハエトリグサが獲物を捕まえたように。

動かない僕に彼女は告げる。


「私の部屋は一番奥にあるの。先に行ってるから、追いかけてきてね。扉から逃げようとしても無駄よ? 鍵は私が持っているんだもの」


 そういって彼女が視界から消えた途端、ようやく僕の体には僕の魂が戻ってきたように感じた。あまりの恐怖に膝をついてしまう。彼女の瞳に輝きはなく、深い深い穴を見る時と同じ、真っ黒な暗闇が広がっていた。むせ返る異臭に吐き気を抑えながら、僕はなんとか立ち上がる。急がなくては、何としても帰らなければ。


「屋敷にある壁の穴を見ては駄目よ。私だけを見て。まっすぐ来るの」


 どこから聞こえてくるのか、彼女の声は四方八方から響く。それは耳元で発せられたようでもあったし、遠くから話しかけられたようでもあった。この屋敷はまるで彼女の体内だ。


 僕はまっすぐ歩き続けた。壁に目を向けないように。しかし、一度気になってしまっては、見たくて見たくて仕方なかった。


 一度だけなら、そう思って覗き込んだ先で、僕は目を背けたくなるようなものを見てしまったのだ。吐き気を抑えられない。涙も止まらない。僕は錯乱状態に陥った。それは骨と腐った肉。動物のモノなんかじゃない、確かに人のモノだった。一つを見てしまったら、僕はもう他の穴を見ずには居られなかった。その時になって初めて、怨嗟のような声を聞いた。今まで聞かないふりをしていたものだった。一つ一つ、穴を覗き込むと、全て男で、生きている人間は、ひどく血の気のないことに気付いた。皆が皆、肌が青白く、首元に紅い穴が二つあいている。おそらくはそこから血が流れ出したのであろう。赤い線が数本引いていた。彼らはひどく意識が混濁していて、飢えたゾンビのような唸り声を発している。そんな光景を目の当たりにしながら、恐怖する自分と、ひどく興奮している自分に気付き、僕は自分自身に恐怖した。僕は望んでいたのかもしれない。酷く醜い非日常を。僕は彼女の部屋の前にたどり着いた。そして、扉を開け放った。


 彼女は大鏡の前に立っていた。しかし、姿は映っていなかった。一歩踏み出して僕は叫ぶ。


「来たぞ! 僕を家に帰してくれ!」

「それはダメだ。坊や。お前は私との約束を破っただろう?」

「嫌だ! 僕は家に帰るんだ!」


 その言葉に、彼女は綺麗な嘲笑を浮かべた。


「嘘はいけないなぁ。坊や、お前は非日常を望んでいたはずだ。日常からの乖離を」

 そう言って彼女は深淵のような瞳を光らせた。僕の体はまた意思を失う。

「さぁおいで、私の坊や。素直な坊やよ」


 彼女の優しい瞳に僕の体はまっすぐ前へと進んでいく。そして、彼女の腕に包まれた。まるで母の腕に包まれているような温かさを感じていると、首筋に鋭い痛みが走り、血と生気を吸い出される感覚を味わった。彼女は十分に吸い取ったのか、僕を床へ無造作に落とした。混濁する意識の中で見た彼女は鋭い犬歯を煌めかせ、優美な笑みを湛えていた。彼女はまさしく男たちを魅了し、捕らえる吸血姫きゅうけつきだった。




 目覚めたとき、僕は穴の中で見たような小部屋で鎖に繋がれていた。周りを見渡しても、どこにも出られそうな場所は無かった。初めのうちは、僕も抵抗した。彼女の瞳を見ないように、彼女の言葉を聞かないように。でも、いつの間にかそれも、もうどうでもいい、とそう考えるようになった。何も考えないで済むのはひどく心地がいい。だから、もう出たいとも思わない。このまま堕落を繰り返しながら、事切れるのを待つのだ。もう、この気持ちすら彼女に植えつけられたモノなのか、自分の本来のモノなのか分からない。


 ただ、彼女の深淵のような瞳を美しいと思ってしまう感情だけは、自分のモノであって欲しい。とそう願ってしまう僕の心にもポッカリと穴があいているのだろう……。



fin

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