19 父さんへの報告

 そして翌週――

 俺は非常に緊張していた。

 風呂場の鏡で髪の毛を整える。変じゃないだろうか。服のチョイスはださくないだろうか?

 今日は響花さんのお店【SoL】の予約日。今日は元々バイトが早く終わる日だったため、帰宅してすぐシャワーを浴び、念入りに体を洗って私服を着替えなおす。バイトに行く時は適当なティーシャツにジーパンだが、響花さんに会いに行くとなるとそうはいかない。全力で服を選ぶ。ちょっと奮発して買ったシャツにチノパンをロールアップして合わせる。手首にはいつもの黒いG-SHOCKの時計を装着し、鏡の前で髪の毛にワックスをつける。


「おや光稀。デートかい?」

「デッ⁉ ち、ちがっ!」


 洗濯物の籠を持ち、偶然通りかかった母さんが俺におちょくった。ビックリした俺は顔を真っ赤にし、口をぱくぱくさせながら母さんを見る。


「はいはい。そんな気合入れんでも変じゃないよ〜。あんたはあたしと父さんの息子だからね〜」


 と母さんは笑いながら俺の視界から消える。母さんの『変じゃない』は信用できん。ああっ、不安だ。


「わんっ」

「あ、ワタアメごめん。行くか」


 俺はワタアメを散歩に連れて行き、その帰りに【SoL】に寄ろうと思っていた。いつもの散歩グッズに線香を突っ込み、俺は家を出る。


 梅雨は明けたのか、カラッとした天気。今年はそこまで雨が続かなかった印象がある。台風も発生したけど、大きく逸れた。

 夏に向けてどんどん気温も上がり、強い日差しが照りつける中、俺は一瞬にして体のだるさが増す。


「あぢぃぃ」


 ワタアメと一緒に歩き始める散歩コース。アスファルトをジリジリと照らす太陽により、薄っすらと蜃気楼が見える。木々の葉はすっかり緑一色となり、雨により落ちた葉っぱたちが道路の端に集まっている。通り過ぎる数名の学生はアイスを頬張り、雫のついたペットボトルを傾ける。手を繋いで歩く母娘は、母が団扇で仰ぐ風で子供を涼ませている。娘は首からぶら下がっている小さな水筒に手を伸ばし、渇いたのどを潤そうとしている。

 ワタアメはもこもこした毛に覆われているくせに暑がることもなく、てってっと前進する。まるで俺の方がワタアメに引っ張られているようだ。せっかくセットした髪は汗で乱れ、前髪は額に張り付く。手の甲でいくら拭っても吹き出す汗に、俺は嫌気がさした。


「待って、ワタアメ。歩くの早い」


 そんな俺を気にもせずに今にも走り出しそうにグイグイと俺を引っ張るワタアメ。首輪で首が締まって苦しくないかと不安になるほどの勢いで角を曲がろうとする。たしかにいつもはこの角を曲がるのだが、俺はそのまままっすぐ進んだ。【SoL】のある大通りではなく日陰の多い裏道を歩く。このように塀や木に囲まれた道の方が涼しく歩くことができる。汗まみれとなる体を少しでも冷やしておきたい。もちろん響花さんに『やだ光稀くん、くさーい』なんて思われないためのせめてもの対策。

 ワタアメは名残惜しそうにじっといつものコースを見ていたが、すぐに俺の後をついてきた。そして近所の麦藁帽子を被った腰の曲がったお婆ちゃんとすれ違う。「こんにちは」と頭を下げてくれたので、俺もすかさず挨拶を返す。お婆ちゃんは首からタオルを掛けており、ときたま流れる汗をそれで拭きあげる。

 そういえば父さんもよく夏場は首からタオルを掛けていた。父さんは建築関係の仕事をしていたから夏は日焼けして真っ黒だったのをよく覚えている。キンキンに冷えたビールを『ぷっはぁぁ!』と美味しそうに飲む姿が、つい昨日のことのように鮮明に頭に浮かぶ。あまりにも美味しそうに飲むもんだから、俺も将来お酒が飲めるようになったら父さんと一緒にビールを飲むのが密かな夢になっていた。でもそれはもう、叶わない。初めてのビールは父さんとが良かったけど、こればっかりはしょうがない。


 俺はワタアメと一緒に、いつもの墓に到着した。いつもの散歩コースとは違ったけれども、墓が近付くにつれ、ワタアメもぐいぐいと強く駈け出そうとしているのが伝わった。ワタアメも、きっと分かっているんだ。ここに、俺たちの大切な家族が眠っていること。

 そして俺は父さん――越前 健夫えちぜん たけおの墓に線香を立てる。誰か来てくれたのかな、花が綺麗に片付いている。父さんはすごく人当たりが良くて、みんなの人気者だったからいつも誰かしら来てくれているのかな。さすがだね、父さん。

 今日は父さんに報告があります。この前話をした、俺の好きな人、実は彼氏がいたんだ。すげー残念。あんなに幸せそうなあの人の顔見せられたら、俺なんかじゃ到底敵わないよ。しかもさ相手の男性、すげーイケメンだった。雲泥の差とはこのことだぁ! って思って、一瞬あの人のことを諦めようかとも思ったんだけど、俺に与えてくれたひとつひとつのものが、俺にとって本当に大きかったんだよ。感謝の気持ちもある、でもそれ以前にやっぱり俺はあの人のこと好きなんだなぁって感じた。それにあの人は俺の原動力になっている。将来の可能性を教えてくれた響花さんに感謝しながら、自分のやりたいことをもっと見出していければ、あの人への恩返しもできるし、それで、完全に吹っ切れそうな気もするんだ。ごめん、長くなっちゃった。ビールが美味しい季節になったよ。今後は差し入れにビールでも持って、また来るね――


 俺が目を開けると、ワタアメが膝に前足を置き、舌を出して「ハッハッ」と鳴いている。俺が長く目を瞑っていたから心配したかな。俺は立ち上がり「あっつ」と小さく呟くと顎に溜まる汗を、手の甲で拭った。


 俺は心に中で父さんに響花さんのことを話しながら、同時に自分の気持ちの整理をしていたような気がする。

 片思い――それはとてもつらく苦しい。しかも俺の好きな人には彼氏がいるという状況。もう付き合うなんて奇跡でも起きない限り無理な話だけど、これで好きをやめたら俺は響花さんへの想いはその程度だったっていうこと。もちろん奪い取るなんていうことはできない。幸せな響花さんを応援したい。響花さんが幸せでいてくれることが、俺の幸せ。そのためにも俺は将来の目標をきちんと見出そうと強く誓った。


 父さんの墓参りを終えた俺は、G-SHOCKに視線を落とす。予約時間まであと一五分。ここからだと余裕で間に合いそう。


 俺はワタアメに「行こう」と声を掛けると、ワタアメも「わんっ」と鳴いて応えてくれる。俺たちの足は、迷うことなく【SoL】へ向かって進み始めた。






「あ、光稀くん。いらっしゃい」

「あ、は……はい。きょ、今日は、よろ、よろ」


 今日も最強に輝かしい笑顔を見せてくれる響花さん。【SoL】に到着すると同時にドアを開けて出迎えてくれた響花さんに俺は速攻で心臓をずきゅんされた。ワタアメなんて俺の腕の中から響花さんに飛びつこうとしてすんごい速度で足を動かして暴れている。両サイドにふんわりした編みこみをしていて、すげー可愛い。あれ、前髪……前髪……、


「ま、前髪……き、切ったんですか?」


 少しまっすぐ切り揃えられた前髪。たしか相模まつりのときはもう少し長かったような気がしたのでそう尋ねてみた。


「あっ、気付いてくれた! 嬉しい~!」


 響花さんは本当に嬉しいようで、俺の両手を掴んで上下にぶんぶんと振る。ああっ、手がっ、柔いっ、気持ちいいっ、あったかい。


「前髪自分で切ったんだけどね、気付いてくれたの光稀くんだけなんだよ~。蒼真すらも気付いてくれないんだよ。彼氏のくせにね」


 あ。今、心がズキンと鳴いた。やっぱりああ宣言はしてみたものの、彼氏――朝比奈 蒼真さんの名前が出ると心が痛い。しかも呼び捨て。でも彼氏なんだから、それは仕方ない。なんか俺の反応、女の子みたいだな。


「はい、どうぞ。荷物はこちらに置いてくださいね」


 そう言って接客をしてくれる響花さん。本当に笑顔を絶やさない。この人が真顔になったり、悲しい表情をしたのを俺はまだ一度も見たことがない。どうしていつもそんなに素敵な笑顔を維持できるんだろうか。やっぱり、すごい。


「今日はどうする? ここで待つ? それとも中で施術するの見る?」

「え? 見れるんですか?」


 響花さんの言う『ここ』とは以前〈ティートリコ〉をごちそうになったあのソファのある空間。お、俺が大泣きをしたところだ。思い出すだけで恥ずかしい。

 しかし待つことも出来るし、実際響花さんが仕事をしている姿を見られるなんて。そんなの見たいに決まっている。ワタアメには申し訳ないが、綺麗になっていくワタアメではなくて、響花さんの姿が見たいがために見学を希望した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る