18 未来の責任

「ただいまー」


【frappé】から出た俺はまっすぐ家に帰って来た。濡れた傘の雫を玄関先で落とすと、傘立てに差し込む。

 今日【frappé】でトーコと話ができて、俺は響花さんへの想いを再確認できた気がする。トーコは俺の気持ちを聞いた後『そっか』と何やらつまんなそうな反応をしていたが、その後からはいつものトーコに戻ったようにも見えた。というか、泉ちゃんの前で俺の好きな人の名前を思い切り呼んでしまった。泉ちゃんは目を輝かせて「光稀さんの好きな人ですか⁉︎」と大声で言っていたので、思わず口を両手で塞ぎにかかった。


 せめて高校を卒業するまででいいから、響花さんを好きであり続けたい。俺の力の原動力。すごいよな。好きな人がいるから頑張れるって聞いたことあるけど、本当にその通りだと思う。


 俺の未来の選択肢を増やしてくれた響花さんに心から感謝している。俺はいったい、将来どんなことをしたいと思っているんだろう。でもそれを考えた時に真っ先に浮かんでくるのは、動物関係の仕事だった。憧れである響花さんのマネをしているわけじゃないけど、ワタアメとの出会いをきっかけに生き物に関する仕事に就いてみたいとは正直思っている。これはいい傾向かもしれない。これまで気付かなかったというか、しまい込んでいた気持ちに向き合えたということ。それに気付いたからには、まず動物関係の仕事にどんな仕事があるのかを調べてみよう。あ、何だか前進した気がして嬉しい。

 と、そんなことを考えていたら二階から妹の未来みくが下りてきた。


「お兄ちゃん。おかえり」

「あ、未来。帰ってたんだな。部活は?」

「休み」

「そっか」


 未来はあいかわらず単調な反応しかしない。瞳に光は感じず、笑顔もない。今は梅雨の時期だからか、余計にそう感じてしまう。


「未来、この前の相模まつり行ったのか?」

「うん」

「そっか。友達と?」

「そう」

「そ、そっか」


 って俺、さっきから『そっか』しか言ってない。正直、こんなツンとした反応しかしない妹未来に友達がいるというのだから驚きだ。学校では友達と笑顔で接しているのだろうか。本当はいじめられていないだろうか。でも週末はたまに『友達と映画見てくる』と出掛けることもあるからやっぱり友達はいるんだと思う。兄としては、こんな未来が今後も社会とうまくやっているのか少し不安なところである。


 というか、今日は珍しくワタアメが出迎えてくれないけど、どうしたのかな。


「未来、ワタアメどうした?」

「知らない」


「母さんが雨の中散歩にでも連れてったのか?」

「知らない」


 ワタアメに関するといつもこの反応だ。いつもなら『いつものことか』と思っていたけど、何だか今日は未来に、ワタアメの存在の大事さを分かってほしいと思った。


「未来、そろそろワタアメに対してもちゃんと接していく努力してみないか? 不安なことがあったら俺も手伝うし、少しずつでもいいからさ」


 俺は体半分そっぽを向いた未来に真正面で向き合った。


「母さんだって婆ちゃんだって、何も言わないけどお前のこと心配してるんだぞ。もちろん俺もそうだし、ワタアメだってそうだ。ワタアメだって俺ら家族の一員なんだから――」

「やめて」


 その時の未来の目に、光はなかった。


、家族でも何でもない」

「み、未来……」


「どうしてあんな犬が生き残って、お父さんが死んだの?」

「未来、それは事故で……」


「どうしてお父さんが死んだっていうのに、あいつはこの家でのうのうと生きているの?」

「…………っ」


 未来の思いは、あの時で止まっている。父さんを失った悲しみから、まだ抜け出せないでいる。


「あんな犬、死ねばいいのに」

「……未来っ!」


 俺は未来のその言葉に、感情的となり思わず叫んだ。


 小さくビクッとなった未来の呼吸が次第に荒くなる――過呼吸だ。


「ハアッ……! ヒ、ハッ、ハァ……ッ!」

「未来!」


 俺はカバンを玄関に乱暴に投げると、台所にビニール袋を取りに走る。そして床に倒れこんだ未来の口と鼻をビニール袋で覆い、精一杯声を掛けた。


「未来! ゆっくり、ゆっくり息して!」

「ハアッ、ハアッ、ハッ、ハアッ‼︎」


 すごい汗だ。前髪や背中がびっしょり濡れている。ここまでひどい過呼吸は久しぶりに見た。どうしよう。未来――


 オロオロする俺を天が見兼ねてくれたのか、玄関のドアが開く音がした。


「あ〜あ、結構濡れたね、ワタアメ。今日は美味しいごはんを作るからね」

「母さんっ! 未来が!」

「やだ、ちょ……っ! 未来――」






 過呼吸のおさまった未来を、二階にある未来の部屋のベッドに運んだ。すやすやと寝息を立てて眠っている未来。俺はその姿にホッと肩を下ろし、部屋を出る。

 一階に降りた俺は食堂に行くと、母さんと婆ちゃんが心配そうな表情で食卓に座っていた。ワタアメは尻尾を下げながら「くぅん」と近寄ってくる。俺はそんなワタアメを抱っこして、食卓の椅子に座った。


「未来、寝てるよ。大丈夫だと思う」

「そうかい。あんな激しい過呼吸は父さんが亡くなった初期以来かねぇ」

「あん時は毎日しんどそうにしよったからねぇ」


 婆ちゃんは湯飲みに入ったお茶に口を付ける。母さんは俺の前にも湯飲みを置いて、急須からお茶を注いでくれた。


「今日の過呼吸は俺が悪い。ワタアメと接することができるように頑張ろう、なんて言ったから」

「ありがとね、光稀。あんたのせいじゃないよ」


 母さんが頭を撫でてくれる。それだけで心のもやもやが晴れていくようだった。暖かく大きな手、俺は母親の偉大さを身に染みて実感する。


「未来は、まだを感じているのかもしれないね」

「え? 責任って?」


「おや? 光稀は知らなかったのかい? ――あの日、なんだよ」


 俺は衝撃を受けて言葉が出なかった。

 父さんが亡くなった当時から心を閉ざしてしまった未来は、実は精神科にかかったことがある。その時にもほとんど喋らなかったみたいで、薬での治療よりもカウンセリングをすることを勧められてしばらく通っていたけど、状況は一進一退。大きく何かが変わることなく、時間だけが過ぎていくような感じだったらしい。

 今は学校に在籍しているスクールカウンセラーと話をしていることは知っていた。週に一回部活を休んで、放課後一時間ほど話をして家に帰ってくる。その時にどれだけ自分の気持ちを話しているのか分からないが、電話で報告を受けている母さんの表情からすると、あまり進展は見られていないようにも見受けられていた。


 そっか――未来はあの日からずっと、その小さな体にこんなに重たい責任をひとりで背負い続けているのか。

 当時家族みんなで父さんが亡くなった悲しみに明け暮れていた時、ひとりでどうしようもない罪悪感と戦っていたんだな。


「でも未来がそんなことを思っていたなんてね。あたしらには心配かけさせたくないのか、そんなこと言ってきたことないからね」

「本当に優しい子じゃね。でもその優しさは、今の未来にはしんどいじゃろうて」


 まだ中学生の未来が背負っている――大きな責任。

 どうしたら軽くなってくれるだろうか。

 俺にできることはないだろうか。


 こんな時――

 響花さんの言葉を思い出す。


 ――『知ってる? 重たい荷物はひとりよりも二人で持った方が軽いんだよ。』






 その日の夜、俺は自室のベッドに寝転がってスマホ画面に映る〈【SoL】美里響花〉という名前を眺めていた。外は雨が止むことなく降り続いており、その滴が窓を叩く。


 響花さんだったら、こんな時どうするんだろうな。響花さんに会ったら、何かヒントになることに気付けるかもしれない。


 俺は半分無意識に、響花さんに向けてLINEを送ろうと文字を打ち始める。

 最初は何て送ろうか時間を掛けてネットで調べまくったのにも関わらず、結局連絡出来ず仕舞いだったが、今はどうしてかすらすらと文字が打てる。


 突然相談事をするのは響花さんに失礼だと思ったから、【SoL】の予約を取りたいとLINEを送った。


〔響花さんこんばんわ。お久しぶりです。近いうちに【SoL】の予約を取りたいんですけど、空いている日はありますか?〕


 送信のボタンを押した後、俺は我に帰った。

 ハッ! なんかすげー無意識だったけど、LINE送っちゃったよ。だ、大丈夫かな。こんな時間だけど、迷惑になっていないかな。

 すると俺の送ったLINEの横に〝既読〟がついた。


「うおおっ!」


 俺は思わず両手でスマホを掲げ、起き上がった。そして、〝ぽいん〟と音が鳴る。


〔光稀くん、こんばんわ。LINE嬉しいよ、ありがとう! 早速だけど、予約は来週の日曜日だったら一七時が空いているよ。ご都合はいかがですか?〕


 続けてスタンプが送られてくる。そのスタンプは『こんばんわ!』と文字の入った犬のスタンプ。か、かわいいスタンプだ。俺は表情筋が緩んでいることに気付き、ぶるぶると顔を振る。まるでワタアメが体をぶるぶると振っているみたいに。


〔お返事とっても嬉しいです。じゃあそれで予約をお願いします〕


 俺は送信ボタンを押した後、スマホを片手にそのまま後ろへ倒れこむ。響花さん、LINEの返事もかわいいだなんて反則だ。でも彼氏さん……朝比奈さんには、もっと彼女らしいLINE、送っているのかな。

 俺はチクッと胸が痛むのを感じながら、そのまま布団に体重を預け、寝落ちした。

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