08 響花の夢の形

 家に帰宅した俺は、響花さんの家に寄って来なかったことを少し後悔していた。決して泉ちゃんのせいなんかではないんだけど、一昨日と昨日の二日連続で会っているから、三日目の今日会えないだけで、もうこの先二度と会えないんじゃないかって考えてしまう。

 とぼとぼしながら廊下を歩く俺の元へワタアメが寄って来てくれた。元気のない俺を心配してくれているんだろう。犬ってすごい。


「あ、お兄ちゃんおかえり」

未来みく。帰ってたんだな。今日部活は?」

「今日は練習早く終わったの」

「そっか」


 中学三年生の妹の未来と廊下ですれ違う。単調でちょっと無愛想な妹だが、これは父さんが亡くなって以来ずっとこの調子。ちゃんと学校には行って、部活も休まず参加して、家に帰ってきて家族と話してご飯も食べて、という至って普通の生活をしているのだが、心だけがここに非ずといった状態。心の時間だけがあの事故の日で止まっているかのように見える。未来の笑った顔なんて、何年も見ていない。

 それにワタアメとは一切目を合わさない。今だって俺の方だけ見て、ワタアメの存在はないように扱う。勘のいいワタアメは未来に合わせ、小さく丸まり尻尾を垂らし、まるでここにはいない存在のように振る舞う。

 未来が去った後、俺はワタアメを撫でてあげる。するとちょっと尻尾を振り、嬉しそうにこっちを見てくる。決して未来が悪いんじゃない。かといって、ワタアメのせいでももちろんない。誰が悪いとかじゃない。ただこの家族の関係を、俺はとても寂しく感じていた。


 家族でテレビを見ながら食卓を囲む。そこにはちゃんと未来も座っているが、今日は特に会話はない。


「光稀、あんた相模まつりの手伝いするんだって? 侑くんとこのお母さんからから聞いたよ」

「そうそう。侑にまんまと食べ物で釣られた」

「あんたそれいっつもじゃないか! 母さんはあんたを食べ物で左右される単純な子に育ててしまった覚えはないよ」

「う、うるせーな! いいじゃんか別に!」

「じゃあ光稀、あんた誰かに『食べ物やるから銀行強盗してくれ~』って頼まれたらやるのかい?」

「やっ、やるわけねぇーだろ!」


 婆ちゃんはその会話を見ながら「おほほ」と微笑む。未来は特に反応をせず、テレビに視線を向けている。


「母さんのバイト先にもチラシ置いてあげるからさ、あとでドサッとおくれよ」

「お、まじで。助かるわ」


 あ、そうだ。相模まつりのチラシ……、明日ワタアメと一緒に響花さんのところに持って行ってみようかな。






 翌日、学校が終わった俺は二人にカラオケ行こうと誘われた。すげー行きたかったけど、丁重にお断りをして家に急ぐ。

 家に着くといつものようにワタアメが駆け寄ってきたので、ワタアメを抱きかかえると再び家を出た。

 響花さんの家に向かって走る。今日は学校からずっと走っているが、不思議と息はあまり切れていない。脇腹も痛くない。状況を理解できずにジタバタしているワタアメを抱えているのでちょっと走りにくいだけで、俺の足は風のように軽やかに路地を走り抜ける。

 響花さんの家に着いたのは、俺の家から走っておよそ一〇分。足を止めた俺は、意外にも結構息切れしていることに気付いた。本当に勢いで来てしまったが、息を整えながらまずちょっと冷静になって考えてみる。チラシを渡すためだけにワタアメを連れてやって来てしまったのはいいが、そもそも前回もその前も、まじで超偶然の出会いだった。あのタイミング、あの場所でなければあり得なかった奇跡。それを今回俺は必然的に家を訪れたのだ。連絡先とか知らないし、前もってこの日のこの時間に行くなんて予告していた訳じゃないから、そもそも家にいるか分からないじゃないか。インターホンを押すか? いや待て。響花さんが出てくるとは限らない。家族が出て来たらなんて説明すればいい? 『相模まつりのチラシをお届けに……』と言ったところで『そんなのわざわざインターホン押すほどじゃないでしょ』なんて言われて門前払いされたらどうしよう。全くもって無計画だった俺の全身は、ここまで走って来た汗なのか、焦りと動揺の冷や汗なのか、よく分かんない汗でびっしょり濡れていた。

 ……ポ、ポストにチラシだけ入れて帰ろうかな。俺はカバンからチラシを一枚取り出すと、ポストに入れるために軽く折り曲げた。


「あれ?」


 思わず声が出る。表札とは反対側の門に設置されたポストの下に小さく手書きの看板のようなものが出ていた。


〈ペットの美容室【SoLソル】。完全予約制。ご予約はホームページからお気軽にどうぞ♪〉


 これ、まさか響花さんがやっているトリマーのお店じゃ……。ご丁寧にお店の住所や地図も出ている。場所は、そんなに遠くなさそうだ。もしかしたらお店にいるのかも。どんなお店か気になるし、ちょっと行ってみようかな。

 俺はお店の住所をスマホの地図アプリに入力して、歩き始める。ここからだと歩いて一〇分も掛からない場所だった。俺の家から更に反対方向へ案内するナビの音声。細い裏道を抜け、少し大きな通りへと出る。あ、この道をこっちに行くと父さんの墓がある道だ。となると、前回響花さんと出会えたのはお店を終えた時間帯だったからかもしれない。


 そして二車線の広い道を更に歩くと、響花さんのお店【SoL】はあった。白を基調としたおしゃれなお店。料金やお店の電話番号が書かれた手作りの看板が立てかけられており、可愛くポップな装飾がドアを彩る。広々とした窓から、中の様子を見ることができるので俺はワタアメと中を覗いた。

 待合室のようなところに置かれたソファとテーブル、そしてお会計をするカウンター。そのカウンターで女性客と喋っている響花さんが見えた。響花さんが視界に入った瞬間、俺の心臓はまたもや激しく動き出す。髪を高い位置で結んで、エプロンをつけた響花さん。俺ではないけど、女性客に向けられた笑顔も本当に素敵で輝いている。

 そして話を終えたのか女性客が店のドアから出てきた。俺は呆然と響花さんしか見ていなかったから、すぐ横で音がしてビックゥと大きく体が跳ね上がる。


「あれ? 光稀くん?」


 そして案の定、響花さんが俺に気付いて外に出てきてくれた。


「来てくれたの? ありがとう! よくここの場所が分かったね」

「あ、はい。あの、家の……」


 いやいや待て待て! 『家の看板を見て』と言ってしまったら『なんで家に行ったの?』となるじゃないか。そもそも、ただ一枚の紙切れを渡すためにわざわざ家に行くのもおかしい話だ。偶然会ったときにでも『あ、これ』って渡すのが自然な流れじゃないか?


「あ、もしかして。ワタアメがいるってことは、お家に行ってくれたのかな? ポストの下にちっちゃく看板出してるからね」

「は、はいあの……、すみません何の連絡もなしに、突然……っ」

「いいんだよ。本当に来てくれたんだ。すっごく嬉しい」

「…………っ」


 俺はワタアメの体に顔を埋める。やばい。嬉しくて死にそう。


「入って入って。しばらくお客さん来ないし、ちょっとゆっくりして行かない?」

「あ、でも、俺、いきなりやってきただけだし……それにっ」

「いいからいいから。お姉さんの言うことは聞くもんだよ〜」


 響花さんは俺の後ろに周り、肩に手を置いて半ば強制的に店の中へ連れ込まれる。響花さんの手が触れている肩に熱が集まる。


 もう本当に、心臓が壊れそうだ。

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