04 また、会えますか?

 キバのように生えた八重歯が、口をパクパクするたびに自分の唇に何度も当たる。ワタアメを頭に乗せたまま固まってしまった俺の体は全く言うことを聞いてくれない。

 そんな状況とはつゆ知らず、響花さんは手を振りながら俺の方へ走って来ている。ど、どうしよう。心臓が止まってしまいそうだ。


「光稀くんだよね? 最初私服だったから気付かなかったよ」

「あうあう」


 また宇宙人のような反応をしてしまった。だって、響花さんが目の前にいるのだ。昨日みたいに庭の柵越しなんかじゃない。何の隔てもないこの場所に、俺と響花さんは対面して立っている。

 昨日は分からなかったけど、成長期(と言い張る)の俺の身長よりも少し高い響花さん。顔なんて芸能人も顔負けするほど小さくて、めちゃくちゃスタイルがいい。それに加え、ほんのり施してあるナチュラルメイク。幻想的なマジックアワーの夕焼けをバックに、それらはより一層魅力さを増している。


「あ、この子が光稀くんところのワンちゃん? かわいいねぇ、おいで」


 突然俺の目の前に影ができた。最初は何だか分からなかったけど、状況を理解できた俺は驚きのあまり、心臓が口から飛び出し、眼球はまぶたから突き出した。

 響花さんが、俺の頭に乗っているワタアメを抱っこしようと両手を伸ばしているのだ。それにより自動的に俺たちの距離は詰まり、俺の数センチ先に響花さんの顔がある状態となる。

 く、唇ぷるぷる……。めっちゃいい匂い……。ダメだ。頭がクラクラしてきた。目が回る。ああ倒れそう。


「ほらほら、怖くないよー。大丈夫だよー」


 響花さんはそんな俺を他所に、ワタアメを抱っこし、何とも幸せそうに顔をそのもふもふに埋めている。チクショーワタアメ! 俺がこんなにビビってるのに、いとも簡単に響花さんに抱っこされやがって!


「プードルにしては毛がもふもふしてて気持ちがいいね。ちゃんとお手入れもされてるから毛並みがすっごく綺麗。これ、光稀くんがお世話してあげるの?」

「あ、ああ、はい。何とか本とか見ながら。自己流なんですけど」

「へぇすごいね。上手に出来てるよ」


 やばい。めちゃくちゃ褒められた。俺は響花さんの言葉が嬉しくて、またもや顔を真っ赤にさせる。それを見られたくなくて必死に顔を両手で隠した。


「お、響花さん、犬のこと……その、詳しいんですね」


 俺はここでまた出会えた奇跡と、まだこの時間が続いて欲しい一心で、めちゃくちゃ勇気を出して会話を続けた。もうすっげー緊張する。シャンプー褒められただけで『詳しいんですね』はおかしかったか? 変な奴だと思われたかな。しかもちゃっかり名前を呼んでしまった。『うわ、こいつ私の名前覚えてるよ。キモ』とか思われたらどーしよう。


「あたしね、トリマーしてるの」

「トリマー?」


 俺は犬を飼っているくせにトリマーという言葉を初めて聞いた。きょとんとした顔が響花さんにウケたのかワタアメを抱っこしながらクスクスと笑っている。最悪だ。これはきっと、あまりにも世の中のことを知らない高校生のガキんちょすぎる俺を響花さんが呆れ返って嘲笑ってる姿だ。もうツラすぎる。俺は羞恥心から顔を真っ赤にし、下を向いてぷるぷると震えた。


「光稀くんってさ、何だかワンちゃんみたいだね――」


 その次の瞬間の響花さんの行動を、俺は一瞬理解できなかった。

 俺の頭に向かって伸びている白い腕。

 そして俺の頭を撫でているであろう、響花さんの手。


「髪、ふあふあ」


 さらさらと撫でられる俺の髪。俺の心臓はあまりの驚きと嬉しさで、三秒ほど止まってしまっていた。ドキドキしすぎて瞳孔が開いているのが自分でもよく分かる。噛み締めた唇の隙間から八重歯がこんにちはしている。ドキドキで苦しくて死んでしまいそうになっているのにも関わらず、『もっと撫でてほしい』と思う自分に正直な俺。

 いつもパーフェクトイケメン侑と一緒にいたから、何となく自分に自信が持てずに今日まで来た。これまでそれなりに女の子を気になったことはあるけど、響花さんは別格だ。こんなにドキドキしたのは本当に生まれて初めて。こんな俺なんかじゃ相手にしてくれない、という不安な気持ちの表れか、まともに顔を見ることができずにずっと下を向いてしまっている。こんなみっともない俺のこと、響花さんのはどう思っているんだろう。


「ああ、ごめんね。突然撫でちゃって。嫌だよね、急に髪の毛触られちゃったら」

「ぇあ! あの! そ、そんなイヤとか……、そんなんじゃ、なくて……」


 必死に否定をしようと顔を上げるが、困り顔の響花さんの顔が可愛すぎて、またもやと縮こまってしまう。


「ありがとう。優しいんだね、光稀くんは。あ、散歩の帰り? 良かったら途中まで一緒に帰らない? あたしもこっちの方角なんだよね」

「ああう、あい、ふぁい。お、俺でよかったら!」


 一緒に並んで歩き始めた響花さんと俺。ワタアメは響花さんの胸の中にすっぽりと収まり、気持ちが良さそうにウトウトしている。

 夢のような時間。まるで一緒に歩く道が花道のように見える。響花さんが歩くたびに、周りの植物は生き生きと咲き、葉は青々と茂る。俺はオーラとかそんなのは全然見える方じゃないけど、響花さんの周りに、キラキラした星たちが見える。ついに幻視が見えるようになってしまった。やっぱり、俺は病気になってしまったんじゃないかと自分を強く疑う。


「そうそう、だからトリマーはねザックリ言うと、犬の美容師さんだと思ってもらえればいいよ」

「へぇー。何だか、かっこいいですね……」

「えへへ、ありがとう」


 今俺と一緒にいる間、俺だけに向けられる笑顔。それがもう本っ当に眩しくて、直視できない。思わず「うっ」と言いながら片腕で太陽の眩しさを遮る動作をしてしまう。

 トリマーの仕事の話をしている響花さんはすごく楽しそうに見える。夢とか特にない俺からしてみると何だかうらやましく思える。


「あたし、もうすぐトリマー始めてから六年経つんだけどね」

「えっ⁉ 六年⁉ 響花さんっていったい――」


『何歳ですか?』と訊きかけた。

 母さんが言っていたじゃないか、女性に年齢を尋ねるのはタブーだと。それなのに無神経な俺はなんと失礼な質問を――


「年齢? あたしは二六歳になったばかりだよ」

「はわっ⁉ に、にに、にじゅう……っ⁉」

「なぁに~? 年上のおばさんだーとか思ったでしょ~」

「い、いや! あの、ちがくて!」

「あはは。ごめんごめん、からかった」


 年上だと思っていたけど……、まさか八歳も年上だなんて……。ということはつまり、俺が小学一年生の時の、中学二年生ってことか⁉ 考えただけでやばい。まさかそんなに年が離れている人のことをこんなに好きになるなんて思わなかった……。

 でもよくよく考えなくても、こんなに綺麗なお姉さんが、八歳も下のガキなんて絶対相手にしてくれないよな。


「あたし高校を卒業してからトリマーの専門学校に入って、資格取って、二〇歳の頃から今の業界で働いているんだよね」

「そう、なんですね」

「なかなかシビアだよー。正直結構大変だった。けどたくさんの動物たちと戯れることができて、本当に力もらっていたんだ。ああ、あたしこの子たちのためなら全然頑張れるって思ってさ。その熱が大きすぎて、ちょっと前に自分のお店開いたんだよ」

「えっ。自分でトリマーのお店経営しているってことですか?」

「そうそう」


 すごい。人としても尊敬する。自分の夢を持って、それを実現した人って、こんなにもキラキラ輝いているんだなって思った。

 すっかり暗くなった空を背景に、響花さんの周りに星が飛び始める。星は流れ星のように流れたり、その場で飛び跳ねたりすごく楽しそう。とても……、とても綺麗だ。


「あ。あたしこっちだから」

「えっ?」


 ちょっと待って。もう一緒にいる時間は終わり?

 何の心の準備もできていない。


「あ、あの……」


 素敵な時間ほど過ぎるのは本当にあっという間というけれど、それは本当の話で。


「お、響花、さんっ」

「ん?」


 で、できることなら、また――


「ま、また……会えますか?」

 ――ま、また……会いたい。


 それは俺の口から出た精一杯の言葉。

 また口から心臓が飛び出しそうになるのを堪えて、自分のティーシャツの裾をぎゅうっと両手で握りしめた。響花さんの顔はまともに見れないけれど、響花さんは微笑んでくれているような気がしていた。


「もちろんだよ、光稀くん」


 その柔らかい返事に、俺の体はピクリと動いた。


「ワ、ワタアメと一緒に、その……家に……」

「うん。ワタアメと一緒に遊びにおいで」


「またね」と手を振り、夜の暗闇の中消えていく響花さん。ワタアメが心配そうに俺の周りをくるくると回っている。

 緊張のあまり力いっぱい握りしめた俺のティーシャツは、見るに堪えないほどしわしわになってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る