雪の女王
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雪の女王
「『下の世界』に行ってきます」
秋めいた空気が冬風へと変わり目となる季節。ルカはどこへ行こうとしているのか。薄らと寒く感じるこんなときは家にこもるに限るのに、このルカのいつもの行動っぷりには毎度のことでたまったものではない。いつも面倒を見るのはこのケンであった。そんな老婆心をルカはお節介呼ばわりするから、もっとたまったものではない。
「大きなお世話だ」
とでもケンは叫びたい。そして、世話を焼かせられてるのは俺のほうだとケン自身も言ってやりたいくらいだった。
それでもケンは心配性で、いつもルカが立ち寄る教会へと行って彼女を止めようと考えていた。日曜礼拝をする教会。だが今日は月曜日だ。昼下がりの誰もいない教会にルカはいるはずと踏んで、ケンは教会の御堂に入るための扉を開けた。
だが、月曜日の教会は本当に誰もいなかった。ルカと行き違いになったのだろうか。
御堂に整列している長椅子の数々、そこには誰一人として座っていなかった。まさか、霊が座っているとはケン自身も思わないが、背筋がぞっとする。
磔にされている十字架の神の御子は静かにケンを見つめる。聖なる象徴のはずなのに、なぜだか寂しそうに自分自身が見られている気分になって冷たいほどに切なくなる。
御堂を二分割するように中央に渡る赤絨毯の上を歩いていると、ふと何かが落ちていることに気づいた。
ガラスの鍵が落ちていた。
何だろうとケンは訝しげに思ってしまう。だが、訝しげに思った理由はそれだけではない。
冬は始まったばかりで、まだ降るはずのない雪が鍵の落ちているあたり、赤く映える絨毯の上に、散り散りと付着していたことだ。触ってみれば冷たく、ケンの手のぬくもりでたちどころに雪は消えてしまう。
試みに鍵を拾ってみる。冷たい。氷室か地下室に放置されてあったかのように、手が痺れそうになる。
ケンは横を向き、聖母が描かれたステンドグラスを見つめる。その美しさ優しさにほっと胸が温まる一瞬だが、そのときケンはあることに気づいて驚きを隠せなかった。
なぜだろう、外には何かが舞う光景がガラス越しに見えた。雪であるはずがない、今日はそれほど荒れた天気ではない。しかしこの場から見えるのは、雪である。見間違えではない。
まったく、なぜだ?
ステンドグラスが風の強さで軋む音を立てる。
長居は無用で、ケンはここから立ち去ろうとした。すると、ステンドグラスが突如、光り輝き始めた。
「な、なんだ」
その異様な光景にケンは驚かざるを得なかった。
「鍵を取りなさい」
女の声だった。
ステンドグラスが軋み立てていたのが、今度は教会全体が軋ませる音を立てる。それほどに周囲を揺るがせる声の反響だった。
ステンドグラスも、長椅子も、十字架も、御堂全体が響き渡るような芯の通った乙女の声。
そして突如、鍵穴のようなものが空中に出現した。この中にガラスの鍵を差し込めというのだろうか。
まさかと考えるケン。ステンドグラスの向こう側の寒そうな空気。その風にルカは晒されているという危機的状況にあるのではないか。ケンのぞくっとする寒気が、冷たい汗を背中に滲ませる。
「ルカ」
ただ一言彼女の名前を口添えて、彼はガラスの鍵を拾い上げ、何か禍々しい呪(まじな)いの文言のように浮かび上がる鍵穴に差し込んで鍵先を捻る。
錠が完全に落ちる音がして、ステンドグラスが扉のように開かれる。
白い光が周囲を眩しく包み込む。
どこかで聞いた聖歌の古き文言が耳の中で反響する。
そこはすでに教会の屋内ではない。ケン自身がそう直感した。
周りは白い霧もや。霧もやは、寂しさも静けさも一緒に包み込んでしまっているかのように冷酷だった。
上方を仰ぎ見る。寒空の灰色が覆い被さるように……そう、まるで睥睨してるみたいに。
暗雲の立ちこめる気持ちが、骨のごとく、ぽっきりと折れそうだ。
それに加えて、霧もやの向こうからハヤテの吹雪が、一斉射撃よろしくケンの身体にかかってくる。
長袖から露出した手首から爪までが、早くも真っ赤に染まっていた。もうただでは済んではいない。
耳も凍り付きそうなほどだった。軽く引っ張れば千切れそうな恐怖感すら覚える。それと同時にルカの無事が心配になった。
そんなとき、樹氷に出くわす。森にでも到着したのだろうか。だが、よく見てみると、それは樹木と言うには優しい名ばかりの格子だった。
鉄格子のほうがまだ心優しい。
木々に十字架のように磔にされて、樹氷に身体を抱擁され、動けないでいるものたち。
ガタイの逞しい猿や、可愛らしい小さなリス、装飾品のような動物たち、中には美少年美少女と形容されそうな若き人間までもが、樹氷の腕に抱かれて動くことをしない。
ケンは目を凝らす。そこにまたもや鍵穴がぼんやりと見える。試みに子リスが抱かれた樹氷を前に、鍵を差し込む。すると、樹氷の腕が子リスを解放し、子リスは音もなく落ちる。触ってみると完全に冷たい。もうすでに物でしかないと悟る。
囚われの身となった他の動物や人間も、ガラスの鍵を使って解き放ったが、すでに死んでいることを知る。生きているものはもういないと知る。
「樹氷の檻ってところか」
剥製同然に扱われたここの動物と人間たちは、樹氷に抱かれて動けなくなったまま、この猛吹雪の中でただひたすら死が来るのを待望するしかなかった。そんな残酷なことが起きたのだということを、ケンが想像するのはたやすいことだった。
そのおぞましさを知るや、身悶えに震えが止まらない。
ここをすぐにでも通り過ぎたかった。
そのときだった、ふいに「きゅぅ、きゅぅ」という声がした。おそらく動物の声だとケンはわかる。だが、その声の主はおそらく弱りかけている、それほどか細い声色だった。
だが、生きているに違いないとその声が聞こえるあたりを探す。そして、それはいた。
白い狐だった。その毛並みは雪に見紛うほど美しい。
大木の樹氷に身体を束縛されて、木をしきりに揺らす。それでも樹氷はシロキツネの胴体に食い込む。寒さに凍えそうで、命も先細ってきている予感。このままではもう長くはない。
表情筋も力が入らなくなってきているのか。無表情の疲れた顔をしていた。そして、「きゅぅ、きゅぅ」と泣いていた。
見てもいられず、ケンはすぐさま、空中に浮かび来る鍵穴に差し込んだ。
錠が外れる音で、閉じていた絵樹氷は両開きに広がり、シロキツネは地面に降り立った。
「つらかったろう」
白い吐息をふかしながら、唾のしぶきを飛ばしながら、牙を見せ元気な様子を見せるシロキツネ。
ケンは鍵を持ったままの手でシロキツネの頭を撫でようとした。「よしよし」と。
だがシロキツネは、赤い口内を見せつけた次に、鍵を口にくわえて奪い取ってしまう。
「こらっ」
と怒鳴るに遅かった。
転がる車輪のように逃げるシロキツネをケンは追いかけていく。駆けるたびに靴底が雪に沈む。そのたびに冷感という「針のむしろ」が、足に突き刺さるのを感じる。
シロキツネは赤い目を何度もこちらを向いてくる。まるで、なついた子犬のように。だが、ケンは遊んでいるわけではない。鍵を奪われたことが当然ながら命がけだった。
「待て!」
距離がどんどんと引き離され、シロキツネが見えなくなってからしばらくの後のこと。霧もやも晴れ上がり、ケンは凍りついてひびの割れた湖と対峙する。
「あのバカキツネ、どうしてくれる」
助けた恩を仇で返されて、ケンは正直むかむかしていた。
当然の怒りを何かにぶつけようとした刹那、湖面にガラスの鍵が見つかった。湖面に突き刺さっており、凍っていた。
ケーキを切るように周りの氷ごとガラスの鍵を取る。
ガラス製であることを見越しているわけではない。だからケンは石を使い、そうっと氷を真っ二つして、きれいな断面になったところをすっと鍵を抜く。
よし、ルカを探そう。
ガラスの鍵はなおも冷たくなっているように感じた。
この世界の奥の奥へと進む。
あたりはダイヤモンドダストの漂う、詩的な冷気が相変わらずにして佇む。
時節、吹雪の中を走り抜けていく俺は、口に雪が入る。
そして喉が乾く感じ。もういい加減、喉の奥が痛くなっていた。口の中も切れていて、わずかに暖かい血の味が舌の奥で感じる。渇ききった喉は雪を飲み込んでも、しみこむことはなかった。
勾配のきつい雪道を注意深く歩いていくと、そこに巨木が一本立っていた。
そこで、ケンは驚くべきものを目撃する。
ルカだ。
巨木が持つ樹氷の腕に囚われて、彼女は動く様子を見せない。
「ルカ!」
まさか、死んでいるのだろうかと訝る。ケンは試みに近づき、彼女の白い手を握る。
いや、わずかにまだ暖かい。
胸に耳元を当ててみると、心臓が確かに鼓動を打っている。よかった、生きている。
ぼんやりと陽炎のように浮かぶ鍵穴を見て、即座に鍵を差し込まない理由などなかった。
だが寸前で、雪を踏み潰しながら、にじり寄ってくる足音を耳にした。嫌な予感がケンの背中をひた走る。
「その娘に手を出すな」
振り向くとそこには、黒き衣を纏った、恐ろしいほど醜い美女が立っていた。
そう矛盾した形容をするのも無理はない。その美女は精巧にできた人形のように完璧過ぎる面持ちだったからだ。できすぎた顔で醜さを感じざるを得ないのだ。
「嫌だね、どんな理由があってもルカは助ける。まして誘拐目的などだったら、お前に怒りの鉄槌をおまけで食らわせるがな」
待てよとケンは思う。つい口走りすぎてしまったが、もしやこの美女がルカを捕まえたのではなかろうか。
「お前か、ルカを誘拐したのは」
「口利きの悪いことを言うな、私は美しいものが好きなのだ。美しいものを美しいままにしておくことのどこが悪いのだ」
まさか、こうやって凍りつくのを待って、動物と人間をきれいなままに死に追いやったつもりか。
「私は雪の女王。醜いものをそのままにすることは私の誇りが許さないが、どうにも私の臓物が煮えくりかえる思いだ」
「雪の女王なら、その煮えくりかえる内臓も冷やしてやるべきだ」
「お黙り! 無駄口を叩いたらお前も殺すよ。まして鍵を差し込んでみな、お前も娘も道連れだ」
「心の狭い女王さまだな」
雪の女王は整いすぎた顔で怒りの発した様子を見せる。
美しいものを美しいままにしておく。そんなこと……。
赤いバラだって凍らせれば砕けてしまうのに、なんという横暴な奴だ。はっきり言えば自分勝手。すべてのものが壊れるものだということを知らない。
俺はキッと雪の女王をにらみつけてから、無視するように鍵穴に差し込んだ。
「おやめ!」
樹氷の枝ぶりからルカはようやく解き放たれ、俺は彼女の身体をそっと抱きしめた。
その隙を見て、雪の女王は走り寄ってきた。黒き衣から先細った指を見せる。そして鍵を持った右腕を握り、指を食い込ませる。
「報復だ」
雪の女王は青白い息をガラスの鍵に吹きかける。
そして、きれいで切ない音を立てながら、ガラスの鍵が粉々に割れてしまった。
「何をする……」
「ハーッハッハッハ!」
黒き衣が風の勢いで飛び去り、そこにはすでにケンとルカを除いて誰もいなかった。
来た道を戻った。ルカを背負いながら。
そして、ステンドグラスが見えた。だが、それは扉のように開かないことを悟る。なぜなら、そこに鍵穴が宙を浮いていたからだ。
「ちくしょう、ここでも鍵か」
ケンはルカを背負った状態で、雪の地面に崩れ落ちる。ルカが軽いはずなのに。
いや違う。ケンの気持ちが重苦しくなったのだ。
いまや先ほどまで拝見してきた、人間や動物の遺体のように、彼は死を待望した。
だが、せめてルカだけでも助けて欲しかった。
ステンドグラスの聖母は相変わらず、傍観主義の立場でケンとルカを見つめるのみ。
「はぁ……」
そのときだった、「くぉんくぉん!」と動物の叫びが聞こえる。諦めるなと言うかのように。
見ると、先ほどのシロキツネだった。
「いまさら何の用だよ、恩返しでもしてくれるつもりか?」
ふと見ると、シロキツネは足に怪我をしていた。血が流れ出ている。重傷ではなさそうだが、いったいどうしたことだろう。
シロキツネが吠えてくるので、ケンはついていくことにした。
そして、先ほどの凍った泉にケンは辿り着く。
そこにあったのは、先ほど真っ二つの断面にした氷。そこに希望が見えた。
真っ二つにした氷がくっついており、赤い鍵がその氷中にあったのだ。血のほかに、珪砂や粘土らしきものがつなぎとして使われていた。
そうか、こいつは鍵の型を作ってくれたんだ。それでケンから鍵を奪って……。
「まさか、お前。自分の血液をこうやって凍らせて」
シロキツネが笑ったように吠える。
ケンはさすがに涙が出てきた。心が再び暖かくなる。
「ありがとう、お前は恩人だよ、恩狐だよ」
シロキツネが去り、ケンは生き血で作られた鍵を手に、ステンドグラスの扉まで歩いていった。
そして、器用に生き血で作られた鍵を取り出し、「神様……」と心の中で謳いながら、鍵穴に差し込んだ。
金属音がして、ステンドグラスが開いたことを確かに示す。
ステンドグラスが開き、暖かい光に包まれる。
気づけばケンとルカは教会で倒れていた。
その後、暖炉に薪をくべて暖かくし、遅れてルカが目を覚ました。
「おはよう、ケンくん。ここは?」
「もう二度と、あの場所に行くなよ。俺、死ぬところだったんだから、そしてお前も」
「ごめんね、次からは気をつけるから」
「気をつけても駄目だ、二度と行くな!」
怒鳴りつけて、ルカはしゅんとして、顔を俯かせる。
「幻想の世界を私は見たいの、だからガラスの鍵を手に入れたとき、これほどまでに心臓が高鳴ったことなかったよ」
「お前の心臓、いつ止まるか俺は冷や冷やしていたんだぜ、冷たいことはもうごめんだ」
「ごめん」
「第一な、幻想的なことなんか身近にあるじゃねえか。『ここ』自体が幻想のようなものだ」
そう言いながら、ケンはルカを外に連れ出した。
オーロラの輝く、足下から覗くことのできる星。
いつもは曇りだけど、今日はとても晴れ上がっていた。この位置からケンとルカは、自分たちが先ほど目にしていた雪の大地をはるか高みから見ることができた。
「幻想は星のように届かないからこそ幻想だ。だからこそ夢があっていいんじゃないか」
「天国みたいだね」
「絶対に行くな!」
ケンとルカはこの高みにいる。
天空を漂う巨大な大地。人はそれを「月」と呼ぶ。
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