ノスタルジックは甘い味

六月の曇天。

白いレースのカーテンをすり抜けて、私の城を侵す風は涼やかに、一少女風情を心地よい眠りへと誘おうとする。

まるで王子さまみたいに、だ。

けれども私には、少女という醜くも愚かな生には、そんなもの。

目に見えないものに構っているいとまなど、ないのだった。


––ほんとうにたいせつなものは、めにはみえないんだよ。


無色透明なその細指が、強情な少女の髪を、誘うように弄んでいく。

自由へと。

未知なる世界へと、手招くように。

私はそれを振り払うようにくしゃくしゃと髪をかきあげると、おもむろに立ち上がって、窓を閉めた。

くるりと翻って、今度は反対側の窓も閉めきってしまう。

最後に閉じ込められたそよ風も、苦しそうに卓上のプリントを揺らすと、すぅ、と消滅してしまった。

凪ぐ。

たちどころに、滞った湿気は煙のように私を取り巻いた。

どこからか響いていた微かなる雑踏は鳴りをひそめ、虫の声もピシャリと絶たれた。

熱気に、目眩がする。

ぐぅん、と、世界が私から離れていくようだった。


小さく息を吐くと、肺に残っていた風が、押し出されてくる。

回転椅子に腰掛けて、目をつぶった。


自分は今、この小さなせかいで独りぽっちなのだなあ、と思うと、急に寂しくなって、同時に、愛しくてたまらなくて。


熱を帯びた自分の腕を、抱いた。


少女。


ずっとこうしてなどはいられないことは、分かっていた。


ぱしり、目を開く。


狭い視界の中には、勉強机と、木製の本棚がふたぁつ、壁のラック、背後にはベッド。

ここにある全てが、私のもので。

否。

家族という集合体のもの、だった。


仮そめの、所有物。


机の上の教科書もノートも、引き出しに隠したちいさな宝石たちも、本棚の詩集も。

仮そめの、ハリボテじみた幼い城だった。


口に入れたアメ玉みたいに、儚く、刹那的な、もの。


そして私は、明日あすにはここを発つ。


凪いだ部屋に満ちた熱気は、小さく、閉じたセカイへと、私を縛り付けようと、ぐるぐる渦巻く。

その、すえたような匂いが、なつかしくてたまらなくて、私は汗でべたついた少女の体を、より一層強く抱くようにした。

幼く青臭いノスタルジィが、狂おしいほどに心地よく、静かに、私の喉元に巻きついていく。


––––パッチワークのテディベア、擦り切れた毛布、おまけのキラキラシール。

ほこりをかぶったお絵描き帳に、空っぽの金魚鉢。


半ば忘れ去られ、けれども手放されることもなく、浅い眠りにつくモノたちに埋もれてまだ、あどけないノスタルジィに、浸っていたかった。


……だけど。


「––!」

私を呼ぶ、声がする。

「準備はできたの? 今日はもう、お夕飯にしちゃいましょう!」

「はあい」

ノスタルジックは、胸を焦がす。

ぽかんと口を開くと、ぷすぷすと煙が立ち上ったようだった。

私はまた立ち上がると、一回ぽんとテディ・ベアの頭を撫でて、それから、両の窓を開け放つ。

圧倒的な現実は、あっという間に一少女いちしょうじょ風情のノスタルジィを、晴らしてしまった。

目に見えない王子さまが、私の周りを、誘うようにくるくる回る。

自由へと。


私は大きく伸びをすると、それを振り払うように、部屋を飛び出していった。

今はまだ、待っていて。

かき回された部屋の熱気は逃げ惑い、最後にはきっと、跡形もなく消え去るだろう。


「……お母さん」

階下に向かうと、台所に立つ母の隣に並び立つ。

腕まくりをすると、母はまるで初対面の人でも見るような目つきで、私を眺めた。

「手伝うよ、料理」

「あらあら」

母がふっと笑うと、その目元には、細やかなしわが寄る。

「いつの間に、大きくなったのねぇ」

「手伝いくらい、するわよ」

ちょっとむくれて言い返すと、母はまた笑って、ぽい、と私の口の中に何かを放り込んだ。

「……あまい」

「イチゴアメ。あなた好きだったでしょ?」

甘ったるい味が、ベタベタと口の中で溶けていく。

その味は、あどけない少女のノスタルジックには、まさに、ぴったりで。

私は母に寄り添うと、ぐっとその肩に、しなだれかかった。

「あら、あら」

困ったふうに呟いた母の声は、ちょっと嬉しそうに聞こえる。

「甘すぎる……」

スポンジに食器用洗剤を染み込ませ、油でギトギトになったフライパンに手をかけながら、なんだかむくれたように、幼いころには心から楽しめていたはずのその甘い味に文句をつけると、母は、そうねえ、と、また困ったふうな笑みを浮かべながら、私の手首をつかんで止めた。

「それはまだ置いておいていいの。油を浮かせたほうがいいから」

ベテラン主婦は、娘にそう解説しながら、フライパンを取り上げると、そっと水のたまった流しに落とした。

たぷん、と微かに音を立てて、汚れたフライパンは沈み、じんわりと油は水中に広がっていく。

「いいのよ、いつでも戻ってきて」

母の、その何気ない口調に、鼻の奥のほうが急に熱くなる。

まるで、あの部屋を満たしていた熱気が、残っていたように。

しょっぱい味が口の中にまで流れ込み、あまったるいイチゴ味と、混ざっていく。

ノスタルジックは、涙の味。

ちょっとしょっぱくて、じんわりと記憶の片隅に溶け込んで、いつかは消えてしまうだろう。

それでも、きっと、また、思い出せる。


甘くてしょっぱくて、胸を焦がすように苦しくて。

でも、ふっと思い出したくなるものだ。


ばいばい、またね、ノスタルジック。


私は忘れて、また思い出す。

前へ進んでいく今この瞬間さえも、いつかの私の、懐かしい、甘い味の記憶になるだろう。

イチゴ飴は、あまったるいべたつきを残して、口の中で溶けて消えた。


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きまぐれスケッチ 依田月日 @yoritatukihi

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