現世界転居したけど日本語が通じなかった(現代ドラマ)(3100字)
十月は人事異動の季節だ。勤続二十年の私にも遂に転勤命令が下ってしまった。あろうことか転勤先はアマゾンの密林が茂る南米の奥地である。
「まあ、なんだね。その歳まで独り身ってことは恐らく一生嫁は来ないだろうし、それなら南米で気ままに暮らすのも悪くないんじゃないかな」
と人事部長に言われても反論できなかった自分が情けない。これまで結婚相談所に費やした金と時間の膨大さ。及び、それでも相手が見付からなかった過去の実績から考えれば、人事部長の予言はほぼ的中していると断言できよう。
「着きました」
東京から飛行機に乗りニューヨーク経由で丸一日。そこから車で二日、船で一日、徒歩で半日。ようやく引っ越し先のウンボラ部族集落地に到着した。案内と通訳を兼ねた頼もしい相棒、テェ=サトー君が粗末な
「着きましたって、もしかしてあれが私の宿舎なのかね」
「はい」
別に東京の一等地にある豪華な社宅を期待していたわけではないが、サトー君が指差している住まいはあまりにもお粗末な物件であった。
さりとて周囲の環境を考慮すれば、その粗末な小屋はむしろ豪邸と呼ぶに相応しい物件とも言える。なにしろ私とサトー君が立っているこの地にはアスファルトの道路も電柱も水道の蛇口もプロパンガスのボンベもないのだから。今日から密林の中でキャンプ生活を始めるようなものだ。
「ケレフモ~」
つなぎ合わせた葉っぱで下半身だけを覆ったウンボラ族の男が話し掛けてきた。
「ケレフモ~」
サトー君がにこやかに笑いながら同じ言葉を返している。どうやら挨拶の言葉のようだ。
正直なところ、この部族の言語については全く勉強していない。本屋はもちろんネット上にさえ、ウンボラ語についての詳しい記述を見付けられなかったのだ。これから一緒に生活するサトー君の知識だけが頼りである。
「サトー君、ケレフモ~とは挨拶の言葉なのかね」
「はい。ですが、あなたは使えませんよ」
「使えない? それはどうしてだね」
「ケレフモ~とは『かれこれ満月が数回昇るくらい会わなかったけど、どうやら元気そうじゃないか。君に会えたからようやく安心して毎晩眠れるよ』という意味だからです。あなたは彼とは初対面。ですからケレフモ~は使えません」
驚いた。僅か五音節程度の言葉にそこまで濃厚な意味があるとは信じ難い。
「なら『こんにちは』みたいに単純な挨拶の言葉は何と言うのかね」
「ああ、そんな単純な言葉はウンボラ語には存在しません。この部族は言葉を発するのがあまり好きではないようで、どうでもいいような言葉の掛け合いは行わないのです。そして思いっ切り意味を込めた言葉ですら、短い音節で済ませているのです」
世の中には面白い言葉を持つ部族もいるものである。それにしてもここまで変わった言語は初めてだ。急に興味が湧いてきた。
「それなら『お腹が空いた』みたいな言葉は何て言うんだい」
「近いのは『ペッコハラ』ですね。正確な意味は『今日で三日間飲まず食わずなので喉がひりつき体はふらつき満足に歩くことさえままならないので何かめぐんでくれないか』です。他人に話し掛けるのなら、これくらいの状態になるまで空腹を我慢してからにしろってことのようです」
「じゃあ『体の調子が悪い』は?」
「近いのは『シチボッテ』ですね。正確な意味は『原因が何なのかは不明ながら頭と内臓の感じが通常とは著しく異なっており、そのため精神的安定が損なわれているので少し面倒を見ていただけないだろうか』です。単なる頭痛や腹痛くらいで他人に面倒を見てもらおうとする軟弱な人間はここには一人もいませんからね。でもウンボラ族にはそれなりに民間療法が伝えられているので、それなりの治療をしてもらえると思いますよ」
いや、そんな怪しげな治療は真っ平御免だ。一応、日本から救急箱を持参しているので風邪や腹痛くらいはなんとかなるだろうが、ケガや伝染病には十分注意したいところだ。
「そうだ、辞書はないのかね。君もそれを見て勉強したのだろう。ちょっと貸してくれないか」
「残念ながら辞書はありません。ウンボラ語は文字を持たない言語ですから」
「文字がない! そんな言語が存在するのかね!」
「何を驚いているのですか。あなたの住む国、日本の北の大地にはアイヌがいます。彼らは文字を持たず口承によって文化を伝えてきたではないですか。ウンボラ族も同様ですよ」
「文字がないのによく通訳になれたもんだね」
「今から約三十年前、ウンボラ族始まって以来の天才と言われる男が出現したおかげですよ。彼は極めて語学の才能に優れ、母国語のウンボラ語以外に五十の言語に精通していたと言われています。私は彼に会って直接ウンボラ語の手ほどきを受けたのです。大恩人です」
その天才男が誕生しなければウンボラ族が世に知られることもなかったに違いない。そして私がここへ転勤になることもなかったであろう。天才男に愚痴のひとつも言いたくなってしまった。
「なら文法の解説書のようなものはないのかね」
「ああ、ウンボラ語に文法はありません。先程お話した私の大恩人がはっきり断言しています。ウンボラ語は言葉というより鳴き声、つぶやき、遠吠え、そんなものに近いようです」
「文法がない! そんな言語があるのかね」
「どんな言語にも品詞や人称や時制や主語述語があると思ったら大間違いですよ。そもそもあなただって日本語の文法を完全に理解して喋っているわけではないでしょう。小学一年生なんか文法という言葉さえ知らないのに授業を受けています。言葉は意思疎通を図るための道具にすぎません。スマホの内部構造を知らなくても通話やネットを楽しめるように、言語の仕組みをしらなくても会話ができれば、それでいいじゃありませんか」
なるほど。確かに会話ができればウンボラ語の仕組みなどどうだっていいな。小難しいことは考えず当面はサトー君の言葉に従うか。
こうして私のウンボラ生活は始まった。初めの一カ月はまったく言葉を発する機会がなかった。話したい内容を意味する言葉がほとんど存在しないからだ。見ているとウンボラ族自身もほとんど会話をしない。指差しや身振り手振り、目線、地面に描いた絵、そんなもので意思の疎通を図っている。底抜けにお喋りを嫌悪する部族のようだ。
「こんなことで正確な意思疎通ができるのかね」
「言語が発達しているから確実に意思が伝達できる、とは限りませんよ。むしろその逆もありえます。詐欺とか勘違いなんかはその良い例でしょう。ここには言葉によるイジメやパワハラなんかもありません。言葉なんて無いほうが人は幸せなのかもしれませんよ」
サトー君はかなり悟っているようだ。言葉に限らずどんなものにも裏表はある。この集落ではまったく見掛けない自動車は、日本では手放せないくらい便利な道具であるが、その道具のために毎年四千人近い日本人の命が奪われているのだ。言葉もまたそれと同じ側面を持っているとも言えよう。
さて私のウンボラ集落での生活であるが、運のいいことに一年も経たずに終わってしまった。
ある日、発達した低気圧がこの地方に襲来し、雑音だらけのラジオで情報を知った私とサトー君はいち早く避難できたものの、他のウンボラ族は逃げ遅れて全滅してしまったからだ。
「『洪水の恐れあり、至急非難せよ』という意味のウンボラ語があれば、助けられたかもしれないのに……」
避難先の教会でサトー君は無念の涙を飲んでいた。やはり言葉は大切だなと私は思った。
このお話とよく似た題名の作品「異世界転生したけど日本語が通じなかった」は、
https://kakuyomu.jp/works/1177354054883808252
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