山本五十才の決断(現代ドラマ)(2900字)


 山本は五十才。しがないサラリーマンを三十年近くやっている。


「さすがにこの歳で夜行は体に堪えるな」


 今、山本は大阪から東京に向かう夜行バスに乗っている。四列標準シートだ。

 足は十分に伸ばせない。肩が隣の青年に触れないよう体は窓寄りに傾いている。つらい。大阪出張などこの世からなくなればよいのに、と山本は思う。


 五十才の会社員が出張で夜行バス利用……なるほど、会社には新幹線を利用したことにして出張費を請求し、差額を懐に入れようという魂胆か、などと考えた方、大間違いである。


 会社の指定が夜行バスなのだ。しかも一番運賃が安い四列標準シートの代金しか貰えない。新幹線を使おうが飛行機を使おうが領収書を添付しようが、貰える金額は同じである。自腹で交通費を捻出するのも馬鹿らしいので、金の無い若者たち同様、山本も四列シートに身を沈めているのだ。


「ふむ、困ったな。催してきたぞ」


 トイレ休憩のサービスエリアを出発して一時間も経たぬうちに、山本は尿意を感じ始めた。


「ビール二缶は飲み過ぎたか」


 今晩は寝付きが悪かった。大阪を出発してからまったく眠気を感じない。夜行バスは眠っているからこそ居心地の悪さを感じずに済むのだ。起きたまま窮屈な椅子に長時間座らされるのは拷問以外の何ものでもない。山本がアルコールに救いを求めたのは無理もないことであった。


「蒸し暑さのせいだな」


 季節は七月。真夜中でも夜風は生温かい。しかも山本は大のビール好き。せっかく買うのなら酒ではなくビールにしようとロング缶を二本買って飲み干してしまった。


「くっ、これはまずいぞ。このバスにトイレはない。次のトイレ休憩まで一時間弱。耐えられるか」


 下腹部の違和感が徐々に大きくなっていく。大きな石を詰められたかのような鈍痛。もはや睡眠どころの騒ぎではない。山本は気を紛らわせようと指の擦れ違い体操を始めた。当たり前の話だが、そんな程度では尿意は止まらない。


「な、何かいい方法はないか」


 今度はスマホで尿意を止める方法を検索し始めた。ツボを押したり、足を温めたり、別の事を考えたりする。尿意は止まらない。止まらないどころか大きくなっていく。下腹部が岩になったように重い。


「どうする、運転手さんにお願いするか」


 すみませーん、おしっこしたいからバスを止めてくださーい……む、無理だ。小学生じゃあるまいし、五十才のおっさんが吐ける言葉ではない。


「となると、これを使うしかないか」


 山本は座席の網ポケットに挟んであるペットボトルを手に取った。乗車前に買った五百ミリリットルのお茶である。まだ半分ほど残っている。


「これを飲み干して空にしてから、この中にすればいいんじゃないか」


 幸いなことに、隣に座っている青年はアイマスクをして熟睡している。公然わいせつ罪に抵触しそうな行為の途中で目を覚まされても、露出しているチ〇コを隠す時間は十分にあるはずだ。


「そうだ、ここにするしかない。それしかないんだ。このままの状態が続けばお漏らしは必定。今こそ決断の時だ、山本、覚悟を決めろ」


 だが山本は踏み切れなかった。残っているお茶を飲み干すことに抵抗を感じたのだ。これ以上の水分摂取はあまりにも危険。飲んでいる途中で不測の事態が発生しないとも限らない。


「それに、この容量で大丈夫か?」


 成人の膀胱の容量は平均五百ミリリットル。だがそれはあくまで標準時の場合だ。現在、膀胱ははち切れんばかりに膨張している。しかもトイレへ行くのを遠慮しがちな貴婦人の中には、一リットルの尿を蓄積できる猛者も存在すると聞いている。

 もし放尿中にペットボトル一本では足りないと気付いても、途中でストップさせるのは絶対不可能。そのまま出し続けた尿によってバスの中は修羅場と化し、乗客からは「五十才にもなってお漏らし、プ~、クスクス」と失笑を買うのは確実だ。


「駄目だ、リスクが大き過ぎる。やはり運転手さんに訴えるしかないのか」


 だが、それもできなかった。恥ずかしい。五十才にもなって尿コントロールすらできないと宣言するのは、山本にとってあまりにも屈辱的な行為であった。


「決断だ、山本、決断するんだ。一か八かでペットボトルを使うか、運転手さんに頼むか、決断、決断……」


 山本は迷い続けた。下腹部の鈍痛は腹に広がり胸に広がり、やがて頭の中も石を詰められたように重くなってきた。意志力が低下していく。この状態が続けば早晩最悪の事態が訪れるはず……今の山本に分かるのはそれだけだった。


「はっ!」


 どれだけの時が流れただろう。バスが速度を落とした。本線から外れる。窓の向こうに明るい建物が見える。バスが止まる。運転手が低い声でアナウンスする。


「トイレ休憩です。十五分後に出発します」


 耐えた。耐え抜いたのだ。山本は歓喜した。しかしここで気を抜いてはならない。下腹部はもはや爆発寸前。少しの衝撃で大惨事が発生する。

 そろそろと座席から立ち上がり、静かにバスから降りる。目的のトイレまでは約百メートル。焦るな、落ち着いて行け山本。百里を行く者は九十を半ばとす。ここはまだトイレまで半分の距離でしかないのだ。


「いま漏らしたらバスの中での苦闘が水の泡だ。慎重に、慎重に」


 ゆっくりと、しかし着実な足取りでトイレへ向かう山本。中へ入った後は小便器ではなく個室へ向かう。チ〇コに触れただけで爆発しそうなのだ。チャックを下ろしてつまみ出す時、頭が外に出る前に放出が開始される恐れがある。ズボンとパンツを脱ぎ捨て、フルチンの状態で放尿するのが最善の策、そう考えたのである。


「よし、準備OKだ」


 下半身を完全に露出した山本は便座に腰掛けた。固く閉ざし続けていた下半身の門扉を開け放つ。チョロチョロと流れ出す尿。この安堵感、この解放感。


「はふうううう~、これぞまさに至福の時」


 山本は幸福だった。自分の選択は間違っていなかった。バスの中で決断をしない、それこそが正しい決断だったのだ。チョロチョロと流れ続ける尿の音を聞きながら、天上の喜びを味わい続ける山本であった。


 ――チュンチュン!


「はっ!」


 スズメの鳴き声で山本は目を覚ました。余りの気持ち良さに便座に腰掛けたまま眠ってしまったらしい。

 脱ぎ捨てたパンツとズボンを履き、慌ててトイレを飛び出す山本。眩しい朝日が降り注ぐ駐車場に夜行バスの姿はなかった。当たり前だ。時計は午前七時を示している。東京に到着している時刻だ。


「ふっ、なんと清々しい朝ではないか」


 乗り遅れても山本は満足だった。あの苦痛を耐え抜き、トイレで放尿できた喜びに比べれば、置き去りにされた悔しさなど屁でもない。


「さあ、行こう。新しい朝日の中を」


 このサービスエリアから五キロの場所に鉄道の駅がある。そこまで歩き直接会社へ向かおう。バスに置いてきた荷物はバス会社に電話して宅配で送ってもらおう。うむ、何の問題もない。


「やはり私の決断は正しかったのだ」


 山本は大きく伸びをすると、駅へ向けて歩き始めた。今日も暑い一日になりそうだ。





 このお話とよく似た題名の作品「山本五十子の決断」は、

 https://kakuyomu.jp/works/4852201425155000392

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