平成時代にタイムスリップしたらムラサキになってしまったようです(平安朝ファンタジー)(3100字)
藤原
「実に目出度い。わしもまだまだ捨てたものではないな」
宣孝はもう四十才を超えている。一方香子は二十才そこそこ。しかも宣孝には既に三人の妻がおり、子も多数いる。長兄は香子よりも年上である。自分の息子より年下の娘を妻に娶れるのだから、上機嫌にならないはずがない。
「よろしくお願いいたします」
己の前で初々しく頭を下げる香子を前にして、十才は若返った気分になる宣孝であった。
三日目の祝宴も無事に済ませて宣孝の通い婚が始まった。何度なく香子の屋敷に赴くうちに、ひとつ、気掛かりができた。屋敷の中にはいつも焼き魚の匂いが漂っているのである。
「どうやら香子は相当な魚好きのようだな」
屋敷に入ればそれなりに食事の持て成しを受けるが、魚が膳に上ったことは一度もなかった。何故夫である自分には供せず一人だけで魚を食べているのか訊いても、
「
としか答えない。
「う~む、気になる」
教えてもらえなければ尚更知りたくなる。こうなればコッソリと覗き見るしかない、そう考えた宣孝は、ある日、屋敷を取り巻く生垣に潜んだ。間もなく昼餉の時刻。魚を焼くのはここ、厨房前の裏庭に違いない。
そうして辛抱強く待っていると、腰に前垂れを巻いた女が七輪を持って現れた。続いて現れた女は魚が入っているらしい竹籠を持っている。
「ようやく始まるか」
炭火が網を焼き始めると女が竹籠から魚を取り出した。宣孝は驚いた。それは
「なんと、好んで食していたのは本当に下魚であったか」
その字が表すように鰯は傷みやすい。捕ってすぐ食べられる漁師ならともかく、貴族が口にするような魚ではなかった。事実を知った宣孝は夕餉の支度をしている女たちに一言いってやろうと、生垣から出ようとした。が、
「う、うわあ!」
思わず悲鳴上げる宣孝。長く生垣に身を潜めていたので足腰が疲れていたのだろう。木の根元に足を引っかけそのまま倒れ込んでしまった。
「う~む……」
意識が遠のいていく。転んだ拍子に頭でも打ったようだ。これも覗き見などというはしたない振る舞いをした天罰であろうか、などと思いながら宣孝は深い闇に落ち込んでいった。
* * *
「ほらほら手早く捌いてちょうだい。ムラサキは数が多いんだから」
意識が戻った宣孝の耳へ最初に聞こえてきたのは女の声だ。しかし下働きの女の言葉遣いではない。一体どうなったのだろうと目を開けた宣孝は仰天した。己の体は鰯に取り囲まれていたからだ。
「どうして鰯が……しかもこれほど巨大な鰯がこんなに沢山……いや、違う、鰯が大きいのではない。わしが小さいのだ、な、なんという事だ。わしの体が鰯になっているではないか!」
輪廻転生……生き物として死を迎えても魂は死なず、この世に何度でも生まれ変わるという仏の教えである。生まれ変わるのは人間とは限らない。魚に生まれ変わったところで何の不思議もない。この理を知っていた宣孝は比較的冷静に事態を受け止めることができた。
「ならばわしは死んで鰯に生まれ変わったのか。だがその鰯の命も間もなく尽きるようだな」
取り囲む鰯の隙間から周囲を眺めれば、ここはどこかの屋敷のようだ。恐らく漁師によって捕らえられ、厨房に運ばれ、これから調理されるところなのだろう。捌いている女たちのお喋りが聞こえてくる。
「でも、鰯をムラサキと呼ぶなんて初めて聞きました」
「あら、学がないわね。源氏物語を書いた紫式部を知っているでしょう」
「千年くらい昔の女流作家ですよね。何か関係があるんですか」
「貴族のくせに鰯が好きで、夫に隠れてコッソリ食べていたらしいのよ。それを面白がって鰯をムラサキと呼ぶようになったんですって」
鰯になった宣孝はギクリとした。まるで己の話をされているような気がしたからだ。無論、妻の香子は紫式部などとは呼ばれていない。香子の父は式部丞である藤原
「だが、源氏物語とか言っていたな……確かに香子は何か書き物をしている」
香子は幼少の頃より読み書きに優れた才女だった。竹取物語や宇津保物語が好きで、それを真似て物語を書いているのを宣孝は知っていた。
「鰯ってDHAやEPAが多いから食べると頭が良くなるらしいわよ。紫式部が平成の世にまで残る物語を書けたのも、鰯を食べていたからじゃない」
「食べれば紫式部みたいな才女になれる魚、それでムラサキと名付けたのかもね」
宣孝は複雑な気持ちだった。ここはどうやら前世から千年の時を経た平成と呼ばれる世らしい。千年という想像できぬほどの長い時の中で受け継がれてきた物語、それが鰯のおかげであったというのである。多くの貴族から下魚と蔑まれ疎んじられてきた鰯、そしてその魚に付けられたムラサキという呼び名……
「ほらほら、口じゃなく手も動かしてね。次のムラサキを取って」
「あ、はい」
宣孝の体が掴まれた。まな板の上に乗せられた。こちらに迫って来る包丁が見える。どうやら己の番が来たようだ。短い命であったが実に稀有な体験ができた。宣孝は力なくエラを動かし最期の時が来るのを待った。
* * *
「気が付かれましたか」
意識が戻った宣孝の耳に聞こえてきたのは聞き覚えのある女の声だった。目を開けると香子が自分を見下ろしている。
「ここは……そなたの屋敷の中か」
「はい。生垣のそばで倒れ気を失っておられたのでここに運ばせたのです。頭を打ったようですが大丈夫ですか」
そう言われて額に手をやると濡れた手拭いが置かれている。その下には小さなコブができている。少々痛むが大事はないようだ。
「うむ。しばらく冷やせばコブもへこむであろう。しかし不思議な夢を見ていたものだ」
宣孝は先程夢の中で聞こえてきた女たちの会話を鮮明に覚えていた。目が覚めた後、これほどまでにはっきりと夢の内容を記憶しているのは珍しかった。
「時に香子、そなたが食っていた魚は鰯であったのだな」
いきなり宣孝に問われた香子。しかしその顔に驚きの色はまったく見られない。涼やかな声で歌を詠む。
日の本に はやらせ給ういわしみず まいらぬ人は あらじとぞ思う
(最近石清水八幡宮への参拝が流行っています。それと同じように鰯を食べない人はいないと思います)
それを聞いた宣孝はにっこりと笑った。期待していた通りの答えだった。
「そなた、何か物書きをしているであろう。もしや源氏物語と題したのではないか」
この問いには香子も驚かずにはいられなかった。少々狼狽しながら返答する。
「あ、いえ。まだ題は考えてはおりません。ただ、光源氏という公卿を取り巻く物語ですので……そう、源氏物語と呼んでも良いかもしれませんね」
「その中に、何かムラサキに関係するものは出て来ぬか」
「光源氏の妻が紫の上と申します。あの、もしかして、私が気付かぬうちにお読みになられたのですか」
「いやいや、読んではおらぬ、読んではおらぬぞ。そう、全ては鰯が見せてくれた夢だ。香子、これからも鰯を食うがよい。そして物語も書き続けよ。千年の後の世まで伝わる物語をな」
全てに合点がいった今、宣孝は満足だった。横たわった己を心配そうに見詰める童女のような香子。この何の変哲もない小娘が多くの人々に愛される物語を生み出すのだ。宣孝は誇らしく、そしてほんの少しの羨望を感じながら、香子の手を握り締めた。
このお話とよく似た題名の作品「平安時代にタイムスリップしたら紫式部になってしまったようです」は、
https://kakuyomu.jp/works/4852201425154922583
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