八咫烏が向かう先

懺悔 一

 目を覚ますと俺はまた寝台に乗せられていた。あの独特な消毒液の臭いを嗅ぎ取って、ここが病院であることを実感させられる。毎回死闘を繰り広げているせいかこうして戦いが終わると天井を見上げている気がする。


 顔面左上部に違和感を感じて指先で触れてみる。医療用の簡易の眼帯が緩く巻かれていて触れた拍子に簡単に外れてしまった。まぶたが締まりなくぱくぱくと空いている。その筈なのに、視界に変わりはない。……半分だけの視界しか見えない。

 試しに右目だけを閉じてみると視界は闇に包まれる。左の瞼は……開いている。


 ……やっぱり、無くなっているんだな。左目。こうして冷静になって現実を直視すると流石に喪失感がある。


「――ゆう、が……?」


 か細く、名を呼ぶ声がした。この世で最も愛おしい声だ。その声がした方へ視線を向けた時には美しい黄金色が目の前一杯に広がった。

 甘やかな匂いが鼻腔を通って脳みそが蕩ける。


「迷惑かけたな。アナスタシア」

「それが私の役目だもの。でも、心配した。今度は死んじゃうかと思った……」

「……そうか、」

「お医者様から解毒するのが後数分遅れてたら、脳が壊死してたって……」

「……済まなかった。でも俺は――」

「わかってる。悠雅はそれで止まるような人じゃない。だから、好きになった。添い遂げたいと思ったんだ」


 頬を染めてはにかんだ彼女は俺に唇を重ねて、俺の手の中に何かを持たせてくれた。


 視線を落として見ると手の中には小さな紙袋があった。


「なんだ、これは……?」

「お詫び……かな」


 詫び? そんなことをされるような覚えはない。むしろこちらが詫びを入れなければならないと思って言ったくらいなんだが……。

 一先ず封を開いて中身を拝見させてもらう。するり、黒い紐が繋がれた牛革が出てきた。牛革には桜の意匠が施されている。


「なんだ、これは?」


 全く同じ問い掛けをまたしてしまっていた。つくづく語彙力のない己に頭が痛くなるな。



「眼帯よ。……左目だけは戻せなかったから。ごめんなさい」

「……そういうことか」


 そういう事ならますます謝らないで欲しかった。いつかこういうことがあってもおかしくなかったんだ。むしろ今まで五体満足でいられたことを感謝しなければならないのに。

 とはいったものの、こうして凹み切った彼女に謝るな、と言うのは簡単だがそう言って納得してくれるような奴じゃない。だったら今一番言いたいことを伝えてやろう。これなら素直に受け取ってくれるだろうと思うから。


「――ありがとうな」

「え? ……なんで?」

「いつも怪我治してもらってるしな。今回の毒は多分前のショゴスの時よりも骨折れたろうし。それに……この眼帯、中々おしゃれだ」

「……ぷふっ、アンタの口から“おしゃれ”って言葉が出るとはね。ちょっとおかしいわ」

「やかましいわ」


 我ながらお堅い人間だという自覚はある。軟派なものは人間であれ、物事であれ余り好まないがそれでもまったく知らないわけではない。それにかっこいいものはかっこいい、綺麗なものは綺麗と思う心はある。故に、この眼帯はかっこいいと思うわけだ。良いじゃないか桜。桜と菊が嫌いな皇国人はいない。


「――どうだろう? 似合うか?」

「うんうん、似合う似合う」


 試しにつけて見せるとアナスタシアは大層喜んだように褒めてくれた。自分も嬉しいみたいに。なんか気恥ずかしくて彼女の顔を直視できなくなった。


「なんで顔逸らすのよ。もっと見せなさいよ?」

「やめろ、馬鹿。未通女おぼこが男の体にべたべた触れるんじゃねえ」

「おぼこってアンタ……恋人なんだからいいじゃない。それにキスだって何度もしてるんだし」

「そういう問題じゃない。ああいうものは雰囲気とか、そういうことをしてもいい瞬間とかがあってだな」

「ふぅん……じゃあ、今はキスしてもいいの?」

「ええい、やめろ馬鹿!!」


 くそ、なんなんだ!? こいつこんなにべたべたするやつじゃなかったはず。色々吹っ切れたからか? しかもくそ、こいつ力強っ!!



「――何やってんの、アンタら?」



 不意に鋭い視線が俺とアナスタシアを貫いた。その視線の先には車椅子を押す大英雄とその車椅子に乗せられた冷めた目つきの銀色の美丈夫がいた。


「なんてものを見せてくれるんだ。おかげで砂糖吐きそうだよ僕は」

「あ、あああ、アリョーシャ、いたの……!?」


 恥ずかしがるくらいならなんでやったんだいアナスタシアさん? お馬鹿にはよくわからないよ?


「よう、光喜――いや、アレクセイって呼んだ方が良いか?」

「……どっちでもいいよ」

「じゃあ、皇太子殿下と」

「む……そうやって時々、意地悪言うとこ嫌いだ」


 彼はそっぽ向いて、口を尖らせて。

 少しいじめすぎたか。


「アレクセイ」

「ん?」

「アレクセイがいい。その……やっぱり友達には本当の名前で呼んでほしいから」

「そうか、それなら宗一達にもそう伝えてやれ。きっと喜ぶ」

「うぐ……宗一のとこ行きたくないな。きっと殴られる」

「おー殴られて来い殴られて来い。あいつの拳は効くぞー」


 からから笑い飛ばしていると殺気を帯びた視線が叩き付けられた。


убитьウヴィーチ убить убить убить убить убить убить убить убить убить убить убить убить убить」


 ものすごい形相で俺に殺気を叩きつけながら何かぶつぶつ言っている英雄殿の姿がそこにはあった。


「何て言ってるんだ、ドミトリー・ニコラツェフ殿は?」

「日本語で言うと“殺す”とか……“死ね”とか?」

「おぉう……」


 めちゃくちゃ物騒なこと仰られてた!? 怖っ。



「なんだ、何か言いたげだな黄色い猿め」

「いえ、とくに、なにも」

「遠慮することはない。言いたいことは言った方が良いぞ小僧。何だったら殺し合いでもいいぞ……!!」


 隠すことなく殺意を曝け出さないでいただきたいです。英雄殿。大人げないにもほどがあります。


「先生うるさいよ。ここ、病院。わかってるの?」

「ぐぬぅっ…………申し訳ございません」


 なんと……あの露西亜の大英雄が子供の言葉で委縮している……だと!? 流石皇帝ツァーリの息子。大英雄も形無しだな。


「まったく、これだから脳筋は困る」

「脳筋とは……殿下、あんまりですぞ」


 これじゃ孫に怒られるおじいちゃんみたいだ。


「悠雅も何にやにやしてんのさ」

「いや、なに元気そうだなと思っただけだよ」

「何それ、嫌味?」

「そんな事ができる人間だと思われていたのか、案外評価が高いんだな」

「それ自分で言ってて悲しくならない?」


 まあな、と返してやると彼はバツが悪そうに視線を逸らして、もごもごと口の中で零して、言葉の矛先を探しているみたいにまごついているようだった。

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