終章5 降臨

 闇の中から這い出ると見慣れた文明の光が見えた。皇都東部、皇都湾を臨む国内最大級の港。見慣れた皇都の街並みを見て、不甲斐無い己の腹を引き裂いてやりたくなった。



「だ、大丈夫か兄ちゃ――」



 一人の漁師らしき男が俺の元に駆け寄ってくるが、止めどなく流れ出る血液と満身創痍の体を前に彼は言葉を詰まらせる。一般人ならば仕方あるまい。こんな状態で息をして立っていられる人間などそうはいない。


「に、げろ……!!」


 一言、逃走することを勧める。命ずると言った方が近いか。とはいえ、困惑仕切りのこの男に通じたかどうかはなんとも微妙なところである。現に彼はその場から動こうとしない。


 それどころかぞろぞろと人が増え始める。


「……?」


 違和感に気づいたのはその時だった。目の前の漁師、そして集まり始めた男たち。どうも、俺ではなく別の何かに視線を注いでいるようだった。その視線を追うと月があった。美しい丸い月。

 だがそれは不意に欠ける。それも歪な形に。


 雲でも差したのかと目を細めて、ようやくその像を捉える。

 いた。天頂に達した月を背に、その子供は俺を、人間たちを睥睨していた。


 こうして、否応無しに俺は己の失態と向き合う事になった。遂に、俺は逢魔ヶ刻の怪物をこちらに連れてきてしまったのだ。


「や……っぱり、こっちに来てたか……!!」


 大口叩いてこのザマか。とんだ糞野郎じゃねえか。自身の無力さに歯噛みする。足りない。力も、信念も、何もかも。



「あははははははは!!」



 女の狂笑が響き渡る。キザイア・メイスンは港に停泊している貨物船の上に腰を下ろしてこちらを眺めていた。実に楽しそうに。



「出て来ちゃった。出て連れて来ちゃったねえ英雄の卵さん。これでこの国は終わりだ。この場に第三階梯はいない。誰もこいつを止められない。こいつがここに現れた時点で私の勝ちだ。」

「き、さまぁっ――!!」

「そうやって怒っても無駄だよ。もう遅い、何もかも。そら、見てみなさい。



 始まる? 何が始まる? そうして疑問する間に事態は動く。これはまだ終末への序章に過ぎない。



そらを見上げよ。更にその先を」

「闇のとばりに星々が整然と散りばめられる」

「永遠の時は終わった。終末の時がやってきた」



 港の漁師たちがクトゥルーを仰ぎ見て何かを呟き始める。



「檻は朽ち果て、彼が目を覚ました」

「彼は戻ってきた。人類は知るだろう。新たな恐怖を」

「彼は全ての名を取り戻した」

「彼は九つの贄を求めるだろう」



 熱に浮かされたような、不安定な光を宿した目で、仰ぎ見て。



「希望は潰えた」

「無知で愚かなる人類が今支配しているこの地を彼は再び支配する」

「星は燦然と輝き、燃え上がり、激しく、彷徨う」

「獣が海より至り、人を食らう」



 彼らに意思は見えず。さながら寝言か何かのようにも聞こえる。



「最後の審判だ」

「八つの丘、八つの谷より支配する」

「彼に祝福されしものは印が刻まれる」

「狂気、恐怖、苦痛の坩堝るつぼ。彼が齎すは終わりなき災厄」



 されど、それは間違いなく礼讃の唄だった。

 


「――恐れるがいい。王の帰還を」



 禍津神まがつかみの像が歪む。ぐにゃりぐにゃりと歪んでは捩じれ、膨らんでは弾ける。そうしながら、それは月を呑む。

 ずるりと何かが零れ落ち、それが海に墜落し、堆積していく。それは山となり、緑色の鱗を輝かせながら鬼灯の目でじっとこちらを睥睨している。広げられた六対十二枚もの翼が空を覆った。やがて、それは一つの像へと結実する。黄金の冠を戴く、八つの首と八つの尾をもつ邪竜へと。


 少し挙動するだけで大津波が起こるであろう巨体は水平線を飲み込み、その口一つだけで皇都を丸呑みにできるであろうことが窺える。


 そして、その海の支配者の足元からは額に“666”と刻まれた二足歩行の蛙のようなものが這いずり出る。アマ公たちは深き者どもと呼んでいたが俺には鱗を持った蛙に見えた。ただ、蛙と言っても成人男性よりも一回りか二回り大きいが。


 蛙たちは漁師たちを襲い始め海へと引き摺り込んでいく。漁師たちは、無抵抗だった。すべてを受け入れるみたいに。中には自ら海に飛び込んでいく者もいた。……俺は、唐突な出来事に動くことはできたものの全員を助けるに至れなかった。

 

「く、そ……!!」

『悔やんでいる暇はないぞ悠雅。奴の力は皇国全土に広がっている。国津神以下の者達は正気を失っているだろう』

「そんなの、じゃあどうすればいいんだよ!?」

『救う方法ならある。あの禍津神を斬滅すればよい。絶望に染まったこの世界を丸ごと切り払うのだ』



 アマ公はさも当然のように言う。満身創痍のこの身にとって、それがどれだけ絶望的な行為なのかを理解した上で。だけど、不思議と力が湧いてくる。そうだ、俺はこの国を守る剣に、英雄になりたいのだ。


 絶望している暇はない。



『この国を、この国の人々を救いたいと思うのなら私を握れ、悠雅。あれさえ撃破すればお前は正真正銘、英雄になれる』

『僕は君が高みに至ってくれるのならなんでもいいやあ』



 厳しさを湛える天之尾羽張とやる気のない間延びしたバルザイの偃月刀。対照的な二振りに薄く笑みを浮かべながらクトゥルーを見上げる。


 地鳴りの如き鳴き声が世界に響いた。すると、遥か天空の彼方から炎のような朱色の光を纏う巨大な隕石が真っ直ぐこちらに向かって落下してきているのが見えた。



『星天すら操るか、邪龍め。あれが落ちれば皇都など簡単に消し飛ぶぞ。何としても防ぎ切れ!!』

「上等だコラ――!!」


 岩盤が裏返るほど力で地面を蹴り、俺は飛来する隕石へと特攻をかける。隕石は極大。視界は既に灼熱の星で埋め尽くされた。だが、負けはしない。斬る。斬り飛ばす。


 クトゥルーという禍津神は間違いなく俺の遥か上をいく強大な怪物だ。現に俺に国を滅ぼす力も人類を滅ぼす力もない。


 ウラジミールも、イタカも、九頭龍も、俺の敵はいつだって格上だった。そうして、それでも、そいつらに勝ってきた。そうだ、俺の本領は――格上殺しだ。


 ビビるな。

 臆すな。


 前を見よ。我が道は前に続いている。下には続いていない。切り開け、斬り闢け。


 全てを滅亡させる龍の力と、全てを切り捨てる切断の祈りが激突する。

 咆哮する。凄まじい衝撃に腕の骨にひびが入り、ぶちぶちと筋肉が断裂していく。

 されど、されど、一歩も引かぬ。退いてなるものか。これ以上無辜の民は死なせない。それが国を守る剣だ。英雄なんだ――!!


 バクバクと心臓が大きく早なる。同時に血液が沸騰するような感覚があった。そこに付属するように俺の口は勝手に言葉を紡ぎ出す。



「――オン――」



 熱い。



「—―伊舍那耶娑嚩訶イシャナソワカ―—」



 全身のありとあらゆる細胞が一気に裏返っていく、



「輝きは北にあり、切っ先は南を見ゆ。戦塵に走る剣閃一つ。死は別離を生み、私とお前の天を分かつだろう。私の生きる場所とお前の生きる場所を分かつだろう」



 ‟これでいいのか?”


 不意にそんな疑問が胸の内に湧いた。この極限の状況でなんでそんな疑問が浮かんだのかはわからない。とっとと、この祈りを手にしてしまえばいいのに。俺はこの疑問を無視できない。



「私は追い、お前は逃げる。何故だ、何故だ、何故だ? 何故私から逃れ行く。どうか私の手を取っておくれ、どうかその顔を見せておくれ。私はそれで満足だから」



 体が拒絶しているみたいだった。何とかして踏み留まろうとしている、そんな感じ。けれど、俺の精神こころは前に進むことをやめない。もう後は無い。死なせないと、守り抜くと決めたのだから、



「——神居天元――」



 俺はカラダを置き去りにする――。



「――‟大神の霊威・禊祓えおおかむずみ・みそぎはらえ”」

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