終章3 多頭竜の軍勢
アナスタシアがアレクセイと瑞乃を抱えて引き上げていく。俺はそれを背中で見送って、改めて、目の前の怪物に意識を集中する。
怪物は相変わらず質量を持ったような殺気を叩きつけてくれており、冷や汗をかかされっぱなしになっていた。
もうこういう感覚に慣れつつある己を賞賛したくなる。そして、同時に思う。格上との相対は本当に心臓に悪い、と。
「お友達の助力無しでこの子とやりあうとは大した度胸だよ
薄ら笑いを浮かべるキザイア・メイスンは嬉々として、歌う様に現状を突き付けてくる。だが、
「勝手に吠えていろよ
「ははは、ではそうなることを祈っているよ」
神経を逆なでする声音で、魔女は高みの見物でも決め込むつもりなのか尖塔の頂上に腰を下ろした。
『クトゥルーか……厄介なものを目覚めさせてくれたものだ』
そう零すアマ公からはかつてないほどの警戒の色が見られた。アマ公ですら怯える相手、ということらしい。
「どう厄介なのか御教授を先生」
『奴は人の精神を狂わせ、全てを呑む。人類を文字通り絶滅させる力を持つ』
ずいぶんと大袈裟な物言いだとも思わされたが、この色濃い強烈な神威を目の前にすれば誰もが閉口する。
『かつてその首を落とされ、海底都市ルルイエに封じ込められた。本来やつは然るべき時、然るべき星の位置がくるまで復活しないはずであった。しかし、連中、外部から無理矢理呪力を叩き込んだのだろう。黙示録の獣、
アマ公の言葉を全て聞き取ることはできなかった。どす黒い、タールのような粘性ある液体がクトゥルーの背中から噴出する様に気を取られていたからだ。
強烈な腐臭が鼻を刺し、目は問答無用で涙を湛える。その液体が放つ悪臭だけで全身が腐るような錯覚すら覚える程だ。やがて、黒い液体は意志でも持ったかのようにクトゥルーを囲い、とぐろを巻く。さながらタールの蛇、といったところか。
その実、タールなんていう生易しいものではないのだが。だってそうだろう? 地面を一瞬で腐らせていく液体がタールであってたまるか。
距離にして五、六
だが、退路は無い。端から想定していない。ここで止めねばならぬと本能が訴えている。故に――、
瞬間、俺とタールの蛇の殺気が交差して――分解の黒炎と腐食の毒が最短距離で激突する。
『ヒュドラの腐毒まで……!! 悠雅、あれには絶対に触れるなよ。お前でもあれは耐えられん』
「触るかよ――!!」
祈りを紡ぎ、腐毒を分解し続ける。しかし、押されている。はっきりとわかる。黒炎が腐毒を分解する速度よりも、腐毒が黒炎を腐らせる速度の方が僅かに早い。こちらが開幕から全霊で祈りを紡いでいるにも拘らず。
しかし、クトゥルーは手を緩めない。タールの蛇の影からそいつは手印を結ぶ。すると、俺の足元、天空、この空間の至る所に呪方陣が展開される。この世界に脈々と流れる龍脈が呼応して、万象を揺り動かす力が集まり始めていた。
「呪、術……?」
暴風のように感じる呪力の流れ。しかし神格の扱うそれとは違い、理路整然としたもの気取り、それが呪術であると思いいたる。
『千の魔術……アジ・ダハーカか!?』
アマ公に怒鳴り声と共に呪方陣が輝き、閃光が迸る。咄嗟に黒炎を身に纏い、体を丸めて衝撃に備える。直後、爆炎と光によって俺は高く舞い上がった。直撃は防ぐことができたものの、衝撃は深く突き刺さり、口内がせり上がる血でいっぱいになっていた。
しかし、クトゥルーの猛攻は止まらない。眼下には九つの首を持つ黄金色の龍。
「次から次へとふざけやがって――」
祈りを研ぎ澄ませる。
「龍神殺しだ。ぶった斬るぞ、アマ公!!」
『応っ』
荒唐無稽なる怪物を殺す。ならば俺が目指すものもまた荒唐無稽であるべきだ。
九つの首が殺到する。その中から最も早く牙を突き立てようとしてくる頭に狙いを定める。
「おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっっ!!」
咆哮しながら頭一つ。落とす。
続けてもう一つ、さらにまたもう一つと首を落としていく。九頭龍が痛みに耐えかねて悲鳴を上げるも、怒り狂った九頭龍は残りの頭で一斉に攻撃を仕掛ける。
怯みはしない。臆した瞬間俺は死ぬ。逃げるな。切り込め――!!
音を、空に瞬く雷すらも置き去りにする速度で俺は天之尾羽張を振う。一本、切断。二本、軽微。三本、切断。四本、切断。五本、半壊。六本、切断。
切断の祈りが僅かに届かなかった二本目の頭が天と地を支える程巨大な顎を開き、俺の腹に牙を立てる。
鮮やかな血が噴き出した。その傷口から痛みとは別に熱を帯びた怖気が這いより出す。
『そいつの頭を落とせ悠雅!! 毒が注入されているぞ!!』
飛びかけた意識が辛うじてアマ公の声を聞き取って、腹に食らいついた龍の頭をカチ割り、二本目の頭を絶命させる。
『ヒュドラのものと違って
「はあ、はあ……だからなんだ……ここは、退けない」
『ああ、だから早くケリをつけるぞ』
「……りょうか――」
そう返事しようとした瞬間、最後に残った頭が最後の力を振り絞って突撃してきた。
致死量の血液を吐き出しながら俺は遥か後方の尖塔に叩き付けられ、その衝撃で視界はぐしゃぐしゃ、体は
九頭龍は力尽きたのかその場で
立たなければ。クトゥルーはまだあそこで悠然と立っているのだから。十拳の祝を再度深く握りしめて、立ち上がるも俺は足元の小石か何かに躓いてしまった。
こんなものが見えなくなるくらい、視界が狭まっているのか?
からり。何かが手元に転がってくる。それは白と黒の色彩の玉で。
「……そうか」
納得があった。同時に、守るものを失った左の瞼を撫でる。
左目一つであの九頭龍を撃破できたのだ。安い代償だろう。薄く笑んで、神剣を握りしめて俺はクトゥルーに斬りかかる。
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