第二章17 怪僧
振り返るとそこには毛むくじゃらの大男が立っていた。そうして、視界にいれた瞬間、頭から食われる己の姿を幻視した。それは決して、熊が
「ジェレヴェンコはついに壊れてしまったか」
そう言いつつその大男は
「…………【グレゴリー・ラスプーチン】…………!!」
アナスタシアのうわ言のような言葉に今度こそぞっとする。北法露西亜帝国――いや、今や
なぜ今ここに、かの怪僧ラスプーチンがここに居るのだ?
「お久しぶりでございます、アナスタシア皇女殿下。そして、君は数週間ぶりだったかな、英雄の後継者――
アナスタシアに対し恭しく礼を尽くす彼は、横目で俺を見下ろしながら悪魔の様に口角を尖らせる。
数週間ぶりだと? 俺はこんな化け物と対峙した覚えは……いや、待て。この巨体に覚えがある。確か、そう、アナスタシアと初めて逢魔ヶ刻落ちた後、帰還した俺達が寝かされていた宿の大浴場で。
「……自国の守護はどうなってんだよ。ドミトリー・ニコラツェフまでこっちに来てるってのに」
「かの御仁は今やソヴィエトの敵ですから。彼を討ちに来たのですよ」
「そうかい。じゃあ、とっとと行ってくれ。ここに大英雄はいない。見てわかるだろう」
「ハハハ、面白い冗談を言う。我がソヴィエトの大敵が目の前にいるというのにここを立ち去るとか意味が分からないだろう?」
「——————、」
敵? 敵だと? この男は今、アナスタシアのことを敵だと言ったのか? ラスプーチンと言えばロマノフ家に仕えた僧侶として有名だったはずだ。それを、それなのに、敵だと? 国が変わり、上が変わった事でその恩義も忘れたと。
大体、帝国の落日の遠因の一翼を担っているのはお前だろう?
「ラス、プーチン……」
か細く、アナスタシアが大男の名を呼ぶ。全身に稲妻を迸らせて。その目に憎悪の光を灯して。余りの剣呑な様子に背筋が凍り付く。目の前の大男を殺害せんと殺意を漲らせている。
どうしたんだ……? アナスタシアは激情家だが簡単に殺意を誰かに向ける人間じゃないはずだ。
「ラスプーチィィィィィィィィィィンッッッッッッ!!」
「ダメだ!!」
激昂するアナスタシアとラスプーチンの間にどうにか体を滑り込ませて彼女の行先を塞ぐ。彼女では勝てない。それどころか俺でも勝てない。この場にいる全員で力を合わせたとしても傷一つ付けられるかどうかわからない。目の前にいる男はそういう強度を持っている。
「……退きなさい悠雅」
「退かない」
「退いて!!」
全身に電撃が走る。それも徐々に出力が上がっていく。彼女の雷は俺の背中を焼き続け、やがて肉が焦げる臭いが立ち込め始める。それでもここを退くわけにはいかなかった。
人に言える事ではないが、こいつは今、格上に挑もうとしている。お前の願いにこの男の打倒は関係ないだろう? だからここで引いてくれ。死のうとしないでくれ。
「彼女はそう言っているが、君は退かないのかな? 私としても退いてくれるとありがたいんだが」
「退くものかよ。こいつを殺る気なら先に俺が相手になる」
アナスタシアを背中で押し止めながら天之尾羽張を構えて祈りを発露する。無駄な事だとわかっているのに。
「大した蛮勇だ。だが、」
ラスプーチンは「足りんねえ」と付け加えた直後、俺の体は真横に吹き飛び、数多くの機器類残骸の山に叩き込まれ、派手に音立てて床の染みになった。
体が、動かない……? 祈りの使い過ぎで呪力を使い果たした時みたいに意識に靄がかかっている。指一本動かない。言葉も、掠れて碌に発せない。
くそ、なんでだ? そこまで精神を摩耗させた覚えはないぞ……!?
動け、動け、動け。このままじゃあいつは、無謀過ぎる戦いに挑んでしまう。
俺はあいつを守らないといけないんだ。死なせたくないんだ。
「悠雅さん――」
瑞乃が俺を助け起こしてくれた。ああ、くそ。こうして誰かに助け起こしてもらわないと体を起こす事もままならないなんて。
「私の男に何してんのよ……!!」
「御覧の通りですよ」
アナスタシアを煽るようにラスプーチンは薄ら笑いを浮かべていた。反吐が出るほど楽し気に。
「しかし、皇女殿下、御身も考えましたな」
「……どういう事?」
「かの英雄の縁者を身内に選べば我々も手を出しづらくなります故」
「それは……私が彼を御陵幸史の弟子だから自分の物にしたって言いたいの……?」
「それ以外にあるのですか?」
「………………ふざけないで。貴方、私達の事をどれだけ愚弄すれば気が済むの?」
閃光が走る。雷撃が迸る。それに、その祈りは、そんなことに使ったらダメだ。ダメなんだよアナスタシア。そんな風に祈ったら、お前の尊い祈りが穢れてしまう。
ラスプーチンの体を雷撃の槍が貫く。しかし、彼はそよ風でも浴びているかのようにまったく動じることなかった。そこに苦悶や苦痛を帯びる表情は無く、ひたすらに笑みを湛えている。
回避行動すら取らなかった。防御行動もなかった。ただそこにあるのはどうしようもないほどに立ちはだかる格という名の壁。
「だ、め……だ……」
静止を求める声。しかし、それは掠れて立ち消える。叫ぶ事すらできない己に怒りが湧く。そうしている間にラスプーチンはアナスタシアに向かって一歩、また一歩と、にじり寄り始める。
祈りの気配はなく、武器も手にしていない。素手でも殺せるという意思表示。
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