終章9 顕現

「——アナスタシア……!!」


 叫ぶと同時に駆け出す。頭ン中なんか真っ白だ。何も考えられない。何をどうすればいいのかわからず俺はただアナスタシアを抱き締めた。


 彼女の体は柔らかく温かい。甘やかな香りと一緒に鼻を刺す様な血の匂いさえしなければ赤面くらい晒しそうなものだが、とくとくと彼女の腹から零れる命の水がそれを許さない。


「なんて顔してるの? アンタらしくないよ……?」


 抱きしめる事しかできない俺に彼女は呼吸を荒くしながらも柔らかく笑って。


「だけど……!」

「……これくらい、大丈、夫。私だって貴方と同じなんだから。これくらいじゃ死なないわ」


 確かにそうかもしれない。だが、俺はかつてない程に狼狽していたんだ。焦燥感でそわそわとしていて、体中が泡立つみたい。


「でも、貴方のそんな顔を見れたのは役得だったかも」

「何バカなこと言ってんだよ!!」


 アナスタシアはイタズラがバレて怒られている子供みたいに「ごめんね」と弱々しく告げて、俺の頬を撫でる。


「汚れちゃった……」


 血のついた手で触った事で俺の顔を汚した彼女のまたしても少し笑って「ごめんね」なんて言った。そんな事気にしないのに。


「いいから、少し休め」

「そんなことよりも悠雅、気を付けて。あの水の怪物、聖遺物に私の血を啜らせたわ。彼らが私を使って何をする気だったのかわからないけど、何か起きる、かも……!」


 そう言われ、ハッとして背後を見れば水塊がうねうねと触手を使って祀られていた剣を振り回している様だ。


「そんな状態になってまでまだ俺を殺したいか、ヴィクトル……?」


 度し難い怒りのまま睨みつける。

 お前のその憎悪を遥かに超えるほどに今の俺はお前を許し難い。


『無駄だ。奴はもう自我を持っておらん。あれは残されたお前への憎悪の塊でしかない』


 アマ公が奴の状況をわざわざ教えてくれるがどちらにせよ俺の感想は変わらない。憎悪のみで肉体を捨て、憎悪のみで魂すら捨ててみせた。それで何が得られるという? 最低限救われるべき自己すらない。最早それでは怨霊と変わらないではないか。


 俺は再度、天之尾羽張を構える。今度こそ、怪物になり果てた魔術師に引導を渡すために。

 しかし、その前に異変が起きる。


 水塊ヴィクトルが振り回している神器が妖しく輝きだしたのだ。赤黒い、禍々しい光に怖気が走る。

 その直後、地響きが俺達を襲う。地震慣れしていないアナスタシアは何事かと少し怯えているが俺はそれ以上に辺りを満たしていた邪悪な神気の濃度が一気に跳ね上がった事に警戒心を強めた。


 最大限警戒する俺の前で、赤黒い光を放つ純白の剣の刀身からずるり、肉が生え落ちる。それが一つ、二つ、三つと数を増やしていき八つに達した所で肉が一人でに蠢き、融合していく。凡そ生物的でない挙動を見せる肉塊に生理的に嫌悪感を覚えるも、目を離せる訳もなく注視する。


 やがて肉塊は熊よりも二回り以上大きな塊となり、逢魔ヶ刻を闊歩している大鬼と同じような像へと姿を変える。ただしその鬼は、硬い鱗と水かきと蝙蝠こうもりの翼、そしてくちばしを持っていた。


 鱗と水かきと嘴から河童の様にも見えるが、あの翼と巨体がどうしようもなく河童という妖怪の像を徹底的に歪めている。垂れ流される余りにも濃厚な殺意の波に発狂しそうなのをギリギリで堪えながら剣を握りしめて、これからどうするかを考える。とにかくアナスタシアをこの化け物の手の届かない安全圏に連れていきたいが下手に動けば何をしてくるかわからないために動くに動けないというのが実情だった。少なくとも、こいつを押さえつける人間が必要だ。


 バクバクと早なる心臓を押さえつけながら注視していると圧倒的な殺意を流れ出させるそれは紅玉の眼球をギョロギョロと動かすと片手で水塊ヴィクトルを鷲掴んだ。何をするつもりなのか更に警戒すると驚くべき事に怪物は大きな口を開けたかと思えばそれを一口で平らげてしまったのだ。凶悪な仕草に固唾を呑んでいると再び怪物の視線が俺に降りてきた。


 殺意は変わらない。しかし、何故かそのまま止まっている。怪物が警戒している様子はない。ただ、何かを待っている様な感じがある。


忌鷹イタカ。この逢魔ヶ刻一層目の主だ』

「主? ……詰まりここで一番強いって事か」


 成程。こんなものが表に出たらは大事になる。こいつは、こいつだけはここから外に出してはいけない。改めて、覚悟して。


「――なん、だ……これは?」


 聞きなれた声を背中で受け取る。向こうは片付いたらしい。しかし、本当に丁度いい所に来てくれたと内心喝采する。


「ここは俺に任せてくれ。だから、宗一、こいつの事を頼む」

「お前が一人で戦うというのか!?」

「そうだ」


 複数の非難を帯びた視線が背中を突き刺す。しかし、これだけは頑として譲ることは出来ない。今の俺でも打倒出来るかわからないものを宗一達と相対させる訳にはいかない。


 自惚れとか、誇示とか、そんな感情が混じったものではなく純粋に危ないから。俺が守りたいものはアナスタシアとこの国の民という不特定多数だけではない。間宮宗一、藤ノ宮雪乃、小此木・アレックス・光喜も含まれている。


「第二階梯に至ったか」


 隊長の声を聞き、少しドキリとした。いや、忘れてた訳じゃないからと心中にて誰に対してやっているのかわからない言い訳をしつつ、


「おきょ――ゲフンゲフン。……お陰様で」


 と、返しておく。断じて俺は動揺して噛んでなどいない。


「良くやった」


 どこか白けた視線を感じつつも、隊長は一言、そう讃えると続けて俺に命令を下す。


「――とは言え、封印を守りきれなかった責任は取ってもらう必要がある。わかるな?」

「はい」

「ならば良し。では深凪悠雅、本日最後の仕事だ。あれを滅しろ」

「了解」


 そう返すと続けて隊長は藤ノ宮にアナスタシアと二つの神器の回収を命令した。彼女が応じるまで僅かに間があったが、やがて式が一斉に放たれ、モルニアストレルカと純白の剣を回収。最後にアナスタシアを担いで離れていく。


「悠雅――!!」


 ……なんだよ、そんな泣きそうな顔をして。お前の方がよっぽどらしくないじゃないか。その必死そうな顔にクスリと思わず笑んだ。

 俺には守るべきものがある。助けたい誰かがいる。貫き通したい意地がある。ウラジミールが求めていなかったものを俺は求めている。俺は死にたくないし負けたくない。


 未だかつてない程に、気力は充足していた。あれだけ恐怖していたのに今はもう負ける気がしない。


「待たせたな怪物」


 再度、十拳の祝とつかのはふりを顕現して目の前の怪物と相対する。第二階梯の祈りに反応したのか怪物は巨大な嘴を開く。

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