序章2 取るに足らない日常の朝
私物の少ない殺風景な部屋だ。この部屋に入った人間は誰もがそう口にする。
自覚はある。寝る事しかできないような部屋。そもそも貰われっ子という身の上であり、何かを購入して部屋に置く、という行為がどうしようもなく
‟横柄な態度の割に結構小心者だな”——とは長年付き合ってきた腐れ縁の言葉だったか。
「情けねぇな」
自室にて道着を脱いで、
あの後、俺は文字通り爺さんの手で吹き飛ばされた。いつも通り一本も取る事が出来ず、その実力差にただただ歯噛みするばかりだった。
一体いつあの英雄と肩を並べられるようになるのか? こんなん様でこの国を守る剣になれるのか。彼の背中があまりにも遠い。
「……急ごう」
朝に余り
「今朝の朝食は何にするか」
卵と鮭が買ってあったはずだ。それとほうれん草も。
卵は厚焼き玉子にして、鮭は簡単に塩焼きにする。後は昨日の里芋の煮物の残りを出すとしよう。
先ず鍋に水と昆布を入れて火にかける。その隣の釜で昨日のうちから浸しておいた米を炊く。更にその隣では湯を沸かす。
昆布の鍋を沸騰させないように意識に留めておきつつ鮭を三枚におろし、その切り身に塩を振っておいておく。
次いでほうれん草を食べやすい大きさに切る。
そうしているうちに昆布の鍋がふつふつと湧いているのを確認し、昆布を取り出し削り節を入れる。
鰹節から出汁を取っている間に沸いたお湯の中にほうれん草を入れて湯がく。色味を失わせないようにしつつも柔らかくゆで上げ、最後は水で締める。姉ちゃんなら一度冷やした出汁にくぐらせるのだが面倒なので少しだけ手を抜く。そのまま小鉢に盛り付け、削り節をそっと乗せて醤油をかけるだけに留める。
「おはよう、悠」
――と、ここで
曰く、ポンコツ。曰く、聖女。曰く、天災。曰く、鬼。
他人からの評価は常に両極端なもので、しかも身内から見てもどれもその内容が当て嵌まってるいるから始末に悪い。
「おはよう、姉ちゃん」
「今日のおかずはー?」
「鮭の塩焼きだよ」
「んー、そっかー」
切れ長の目を細めて柔らかく笑む。笑んでから唇を僅かに尖らせて、
「ねぇ、悠」
「なんだよ姉ちゃん」
「あたし魚嫌いなんだけど? てか肉食べたいんだけど? 肉」
「二十二にもなって好き嫌いすんな」
何を言い出すかと思えば子供みたいな事を宣いおって。
「たまの一緒の食事なんだから私の好きなものぐらい出してあげよう! って気にならない?」
「ならんよ。大体今何時だと思ってるんだよ」
古めかしい柱時計に向かって指を向ければ、既に短針は七時を回っている所だった。いい加減良い時間になっている。
「そういうのは朝じゃなくて夕飯時に言ってくれよ」
無論、作る前や作っている最中ならいざ知らず、作り終わった後に言い出そう物ならその場で取っ組み合いが始まるだろう。
……もしそうなったら十中八九、俺が痛い目を見ることになるから姉ちゃんには是非とも良心的な行動を心掛けていただきたい所である。
「だって、私もいつ帰ってこれるかわかんないだもん」
さらに口を尖らせる姉ちゃんは火を扱っている俺の背中に寄りかかってきた。普通に危ないからやめて欲しい所だが言ったと所でこの女は絶対にやめることは無い。仕方なしに足腰に力を込めて、ふらつかない様踏ん張る事にする。
姉ちゃんは大尉だ。それも女で、二十二という年齢にも関わらず、だ。
どういう経緯があって大尉という役を担う事になったのかは知らない。知らないというか聞いても、「普通に仕事してたら大尉になってた」なんて、なんとも適当な返答が返ってくるものだからそれ以上の事は聞いていない。
ともあれ姉ちゃんは大尉なのだ。そこそこの地位にある彼女が短い労働時間で帰宅できるはずもなく、不規則且つ長時間の労働を強いられている。
国の為とはいえ、女にそこまでさせてもいいものか? なんて思ってしまうくらいには姉ちゃんは家に帰ってこない。
「……時間ある時は善処するからあんまむくれないでくれよ」
「善処って……不祥事起こした政治家じゃああるまいし」
幾分か機嫌を持ち直したのか姉ちゃんはからからと笑んだ。
「ねぇ、悠」
「今度はなんだ姉ちゃん」
「
「またえらく唐突だな」
「あんた無駄に無駄な事を
確かに武道と人生で必要になる事の大半は爺さんから教わっているし、語り始めると止まらなくなるきらいがある爺さんの無駄話に付き合っていることも多いからか無駄な知識ばかり身に着けている気がする(物の弾みで自分でも無駄と思ってしまった当たり本当に無駄なんだろうな)などと、そう自分の中で結論つけてしまう。
しかしながら、無駄だと自分の口から言うのは憚られるし、何より爺さんがヘソを曲げそうなので反論しておくことにする。
「無駄とか言うな無駄とか」
言い返しつつ味噌汁を完成させて、
「いろいろ俗説があった気がするけど、確か関東地方の方言だって言ってたような気がする」
「江戸訛りってやつ?」
「そう」
江戸っ子はサ行が苦手で‟さけ”が訛って‟しゃけ”と呼ぶようになったという訳。もちろん他にも説はあるが、語った所で、「あらまぁご高説どうも」って感じになるのでこれ以上は割愛させていただく。
「今日の
七輪で鮭を焼きはじめ、いざ厚焼き玉子を焼こうかという所でこの家の家主にして我が師が厨に顔を出す。
「おはよう師匠」
「うむ、おはよう」
「どうしたんだジジイ? ……いつもは呼ばないと部屋から出てこないだろうに。腹が減りすぎて鮭の焼ける匂いにつられたか?」
「人を食いしん坊みたいに言うでない。しかし、ふむ……美味そうな匂いだ」
のっけから語るに落ちてんじゃねぇか。手の平を返すにしたって、もっと間を置くだろう。……まぁ、そう言ってもらえると作り手としてもうれしいものがあるから良いけれど。
「ほー、厚焼き玉子もあるのか?」
「ああ」
鼻をひくつかせる爺さんに厚焼き玉子をひっくり返しながら、短く返答する。
気が付くと爺さんが真横に近づいてきていた。
爺さんは料理ができない。盲目だからという訳ではなく、単に料理下手なのだ。
本人曰く臭いや音、肌が感じ取る微妙な空気の流れで物の位置を把握し、大抵の家事を熟す事ができる超人だが、どうにも料理だけは苦手らしい。
実際、この家に引き取られた当初に出されていた食事の数々は
「厚焼き玉子か……」
「なんだよ? ひょっとして目玉焼きの方がよかったか?」
「いや……その、なんだ? あれだ」
どこか落ち着かない、宙ぶらりんな様子だ。
「その……厚焼き玉子は、甘いのか?」
「やけに溜めた問いがそれかよ……いつも通り甘いぞ」
「ごほんっ……そうか」
淡泊な返答をしたつもりなのだろうがニヤけてる顔を隠しきれてないぞ甘党爺さん。
そうこうしているうちに鮭も焼き上がりご飯もいい具合に炊きあがった。爺さんもそれを察したのかちゃぶ台を拭き上げ、既に座して待機している。
まるで子供だな、なんて曲がりなりにも保護者に対して失礼な事を姉と共に零しつつ食卓に食事を並べる。
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