第三章6 學天則
「あの最後に良いですか?」
部屋から追い出される前にこれだけは聞いておかねばならなかった。
「どうした?」
「あいつは……アンナはどうしてますか?」
「あやつなら、次期に会える。まぁ、少し待っていろ」
大佐殿は意地の悪い笑みを浮かべて、今度こそ部屋から俺達を追い出した。次期に会えるということはあいつは今、少なくとも窮地に立たされているという訳では無いのだろう。それなら一安心だ。
「――とりあえず、お前を連れ回す前に部屋に案内しよう」
「わかった」
宗一に連れられるまま俺は元来た道を引き返す。宿舎は別棟にあるらしく一度玄関口の方まで戻らないといけないらしい。すたすたといやに早歩きな宗一を追いかける。一体なんだってんだ全く。
渡り廊下を抜け、宿舎棟に入ると長い廊下が続いていた。長いと言っても気の遠くなるほどではなく、精々家が二件分位のもので小走りでも数秒足らずで突き当りに辿り着ける程度だ。そして、宿舎棟の入り口のすぐ脇には二階へと続く階段がある。
「その階段から上は女子寮だ。間違っても登るんじゃないぞ?」
「知ってて登るほど俺は勇者じゃねぇよ」
女子寮って事は藤ノ宮の部屋もあるはずだ。あの女がいるということは碌でもない罠がてんこ盛りに違いない。
「それよりも俺の部屋につれてってくれ」
宗一は頷くとそのまま突き当りまで俺を連れ立ち、扉の前で止まると部屋の鍵を解錠した。
「ここがお前の部屋だ」
中に入るとまず一杯に差し込まれた陽の光に出迎えられた。
南と東側に窓が作られており起きる際の目覚めは格別だろうという事が伺える。
家具は最低限の物しかなく、仕事机、ベッド、小さめの箪笥がある位か。申し訳程度に外套掛けもある。有効活用させて頂こう。
「何か必要なものがあれば大佐に直接言えば取り寄せて貰えるぞ」
「大丈夫だ。元々私物は少ない方だからな」
無趣味と言うと聞こえは悪いがあながち間違ってもいない。強いていえば稽古と料理がそれに当たるのだろうが、稽古はともかく料理はここではできないだろう。
そういえばここでの非番は何をすればいいののだろうか? 何も無い山奥。家事をしなければならないという訳でもなさそうだ。まぁ、いざとなれば誰かが話し相手になってくれるだろう。宗一の将棋に付き合ってもいい。俺は頭が悪いからすぐに負けてしまうだろうが。
「荷物置いたら挨拶回りがてら館内の案内だ」
「了解」
俺は手荷物と俺の手から再び離れるのを渋るアマ公を無慈悲に置き去りにして自室を後にする。
宗一から受け取った鍵で部屋を締め、いざ館内探索と洒落込む。
玄関口のある本館に戻ると藤ノ宮がこちらに向かってふわりと微笑んだ。
「ようこそ深凪様。お待ちしていましたよ」
「おう。さっきは悪かったな、色々迷惑かけた」
「いいえ、とんでもありませんわ」
にっこりと音がなりそうな位深い笑みを浮かべる。薄気味悪いにも程がある。相当怒っていそうだ。
「今悠雅を先輩方に挨拶回りさせようとしていたんだ」
「それでしたら、私もお供させていただきますね」
今度は藤ノ宮含めた三人で館内を回る事になった。ここまで来るとあと一人の行方が気になる所である。
「光喜はどこにいるんだ?」
「あいつは別件で出払っている。バイク――軍用自動二輪の試運転だそうだ」
なにそれ楽しそう。余裕ができたら俺も乗せてもらいたいところだ。
それから暫く二人の後を追うように付いていくと、書庫と札が掛けられた部屋に辿り着く。
「失礼します」
宗一と藤ノ宮に続き入室するとまず最初に、
――チクタク、チクタク
機械仕掛けの時計が時を刻む音が迎え入れた。どこか不快感を覚えさせる音。どこかで聞いたことがあるような、そんな音。その不快感を押して奥に進むと無数の本棚が並んでいた。古ぼけた木製の物から
書庫の管理の
「――それは未完成品だから警戒しなくても良い」
声が聞こえてきた方へと視線を向けると本の山に囲まれた脚立の上で露西亜語辞典を読んでいる一人の男の姿を見つける。
「そこにおられましたか、隊長」
どこか顔を顰めた宗一が声をかけると影はようやくこちらに視線を注いだ。身の丈は目測で俺と宗一の中間程。浅黒い肌と埃だらけのしわくちゃな軍服。野暮ったい格好をしているが、顔はこれ以上なく整っており、宗一が精悍な偉丈夫、光喜を儚げな美少年とするなら彼は麗しき美青年といった所――なのだが、何故だろうか? 妙に非常に覚えにくい顔をしている。これほど特徴的な顔をしているのに三歩歩けば忘れてしまいそうになる程だ。俺はニワトリか何かか?
「なるほど、彼が
男は一言嫌味を言うと手にしていた辞典を適当に放って、こちらに近づいてくる。
どうでもいいが書庫を荒らしているのはこの男だと確信に至った。
「悠雅。こちら【
「今紹介に預かった學だ。現場指揮を任されている隊長だ。いわば君の直属の上司。よろしく頼む」
スっと右手を出して握手を求められる。俺はそれに応じつつ名乗り返す。
「深凪悠雅少尉です。これからよろしくお願いします」
名乗り返しながら、妙な違和感を覚える。やけに右手が冷たいように思えたのだ。人のものとは思えないくらい冷たい手をしている。凄まじい冷え性なのだろうか? この人は生姜を食べた方がいい気がする。
「君達がここに居るということは東御大佐はもうお手隙かな?」
「いえ、先程電話が掛かって来ましたのでしばらく様子を見た方がよろしいかと」
生真面目な顔で答える宗一に學少佐は、何故か全力で嬉しそうな顔をして、
「よし! 邪魔しに行くとしようか!!」
などと宣い、本の山を放ったらかしてゴキゲンにその場を走り去ってしまった。
「何だったんだあの人……」
困惑。ひたすら困惑しかなかった。
「いずれ慣れる。というか慣れろ」
宗一の目はどこか死んでいる。先程から黙っている藤ノ宮の目も同様だ。
「あの人が隊長で大丈夫なのか?」
我ながら酷い言い草だと思ったがそれでもあの逢魔ヶ刻を見てきた人間としては不安を拭い切る事ができなかった。
「そこについては問題無い。あれで頭はかなり切れる御仁だ。何せあの“ミスカトニック大学”の首席卒業生らしいからな」
「嘘だろう……!?」
思わず呻くように言葉を絞ってしまった。その程度には驚きがあったのだ。
ミスカトニック大学と言えば横文字に疎い俺ですら知っている合衆国有数の私立大学だ。音に聞こえるハーバード、プリンストンに続く超有名学業機関であり、こと博物学、魔的技術体系においては他の追随を許さないとされている。そんな大学のそれも首席がともなれば
「天才と何たらは紙一重って言うしなぁ……」
どこかやり切れない思いを抱いて書庫を後にする。それから食堂、浴場、会議室を回り、続いて妙ちきりんな音がひっきりなしに鳴り続ける部屋の前にやってきた。一体この部屋の中で何が起きてるんだ?
思わず身構える俺を他所に藤ノ宮が躊躇無く扉を開け放った。
「付いてきてください」
藤ノ宮に促されるまま、彼女を追うように部屋に入る。
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