帯方太守張撫夷
一方その頃、洛陽では
こういう政情であったので、今度の洛陽滞在は張政たちにとって居心地の良いものではなかった。賄賂は今までも手続きを円滑にする為に少しは使ったものだが、今回は朝貢を成功させる為にいくらかを工面しなければならなかった。明けて正始九年(248)になると、張政たちは早々に京師を発った。
正始十年(249)、司馬氏の曹爽一家に対する逆襲の火が噴き出す。正月六日、皇帝は先帝の墓所へ参拝に赴く。明帝の陵墓は高平陵と呼ばれ、洛陽から南へ九十里の地点に在る。曹爽やその弟らに取り巻かれて、車駕は
帯方の市場でも、講釈師が座を設けて、曹爽一家の悪政、司馬懿が病気を装って曹爽の疑念をかわした次第、政変当日の様子などが、まるで見て来た様に語られる。曹氏に肩入れする者たちは、司馬氏の悪い噂を広めようとしているらしいが、そういう話は市場では聞かれない。
魏王朝では、幼弱な皇帝が三代続き、司馬父子が政治を執った。司馬懿は嘉平三年(251)秋八月に七十三歳で薨去し、長男の師も正元二年(255)に四十八歳で陣歿して、次男の
司馬昭は景元三年(262)に大軍を派遣して、
泰始二年(266)、帯方太守まで登り詰めた梯儁は、張政を後任に推薦して、隠退を申し出る。程なく皇帝の任命が下りて、張政は帯方太守となり、撫夷将軍の号を加えられた。張政も五十二歳になり、王碧との間には子宝に恵まれている。長男の
太守となった張政にとっての困難は、朝廷の辺境に対する支援が、年を追って薄くなりつつある事であった。楽浪地方の北、大山深谷の中に国を構える
太康元年(280)、長く
太康九年(288)、七十四歳になった張政は、病いを得て床に就き、暫くして卒去した。張政の訃報が伝わると、楽浪地方の住民のみならず、倭人や韓人なども集まり、喪主の王碧を助けて、故郷の県城の郊外に土を積んで墓を築いた。その古墳は今の黄海北道鳳山郡智塔里に在り、墓室に使った煉瓦には〈使君帯方太守張撫夷磚〉という文字が刻まれている。〈完〉
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