帰るべき処へ
新たな“女王”となった少年臺与は、先代の様に積極的に外に出ては行かず、謁見を許す事も少ない。宮室の奥に在って祭祀を行うのが常で、軒に臨んで政治を総覧しても、声を上げて号令はしない。
「よしなに」
臺与の口から聞かれるのはほとんどそれだけであり、それも小さな声で、側近にしか伝わらない。
「よしなに」
臺与がそう言いさえすれば、後は難斗米が全てを処理する。それでも“女王”を中心とする体制は、倭人たちを落ち着かせた。張政は勅使の権限を以て臺与を倭王の世子として認め、爵位の正式な相続の許可を天子に申し入れる様にと勧告した。
「よしなに」
という王の一言を受けて、難斗米が使節団を送る準備に取り掛かる。その間に張政には別の仕事が有る。
ほぼ全員の意向を確かめ終えて、張政は王碧の家に向かう。王碧は邪馬臺の王宮に近い一等地に住居を与えられている。季春の暖かな陽光に包まれて、家を繞る盛り土に腰を掛け、縫い物をしている王碧を張政は見付けた。張政はまだ六つか七つくらいの頃を想い出す。親の用事を言い付かって王家を訪ね、今と同じ様に縁側で裁縫の練習をしている王碧を
「阿碧」
お碧さん、と幼い頃の様に声を掛けた。別に見咎める人も無い。
「ああ、政さん」
と王碧は笑って応じる。張政は隣に腰を下ろす。
「
と張政が切り出せば、王碧は、
「へえ、あの人にも子どもが――」
と言い掛けて、
「政さんにも、さぞ可愛らしい子どもができた頃でしょう」
と言い換えた。雀の群れが降りて、盛んな鳴き声が耳を覆い、風を待って飛び去る。
「
「まあ、とっくに結婚していないとおかしい歳なのに」
年を数えてみれば、張政ももう三十三になる。しかしそれは王碧も変わらない。木の枝に並んだ雀も咲っている。雀が飛んで行くと、王碧は宮裏の方へ目を遣った。
「臺与さまはお寂しいでしょうね。女王さまが亡くなって、一人の話し相手もない――」
張政の目もそれに従った。それは王宮と口では謂いこそすれ、洛陽の宮闕はおろか、帯方郡庁にさえ及びもしない。聳える城壁も、鱗の様な瓦屋根も無い。ただ柵に囲われ、丸太の
「でも、もう還らないと。ここも好きだけど、八年も家を空けるなんて、悪いことね」
初夏になれば張政たちは、伊都の港から帯方郡へ舟を出す。臺与は大夫
「おれは先王に一生分の扶持を約束していただいたからな。旅暮らしも懐かしいが、まあここに腰をすえるさ」
臺与の侍医として留まるという突兀先生に、張政は訊いておきたい事が有った。臺与は年十三の今ならまだ良いが、成長すればもっと男らしくなって、女王の役などもうすぐ出来なくなるのではないだろうか。
「その心配は無いよ。臺与さまは美人に育つとおれが請け合うさ」
「まさか……、いつ?」
「先王も御承知の上だよ。おれの手術の腕前はあんたにも見せたっけ。馬なら脚を縛るが、人なら麻沸散を
異例の事で、臺与も張政たちを見送りに港へ出る。しかし多くの護衛と女王の衣裳に包まれたその意思は、測り知れなかった。張政と王碧は同じ舟に乗り込んで、帯方郡への帰途に就いた。
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