帰るべき処へ

 張政チァン・センはあの景初三年に洛陽ラクイャンの宮殿で、幼い皇帝が軒に臨んでいるのをた時に、王者には必ずしも実力を必要としないのだという事を知った。あの孩児こどもが袞衣と冕冠を着けて皇帝として担がれている様に、十三歳の臺与とよも女王の衣装を纏い、姫氏王になぞらえられる存在となった。難斗米なとめは、北部の諸国を監察する役目を都市牛利としぐりに譲り、邪馬臺やまとの相として政治を執権する。諸国の首長らは、姫氏王の生前に定められた地位を踏襲する。狗奴くな国には邪馬臺の大夫が代官として派遣される。姫氏王の構想した狗奴国併合後の体制が、臺与を中心として再生される。権力は形式によって支持される。

 新たな“女王”となった少年臺与は、先代の様に積極的に外に出ては行かず、謁見を許す事も少ない。宮室の奥に在って祭祀を行うのが常で、軒に臨んで政治を総覧しても、声を上げて号令はしない。

「よしなに」

 臺与の口から聞かれるのはほとんどそれだけであり、それも小さな声で、側近にしか伝わらない。

「よしなに」

 臺与がそう言いさえすれば、後は難斗米が全てを処理する。それでも“女王”を中心とする体制は、倭人たちを落ち着かせた。張政は勅使の権限を以て臺与を倭王の世子として認め、爵位の正式な相続の許可を天子に申し入れる様にと勧告した。

「よしなに」

 という王の一言を受けて、難斗米が使節団を送る準備に取り掛かる。その間に張政には別の仕事が有る。王碧フヮン・ペク突兀鋭トツゴツ・ユェイを初めとして、正始元年の訪問以来、帯方タイピァン郡に徴用された人で倭地に留まっている者は十数人になる。彼らの中には、この土地で結婚して子をした者もある。張政はこうした人たちの家を訪ねて、郡に還る意思が有るか無いかを質した。還らないという者には、故郷の籍を離れる手続きをしなければならない。即答しかねる者も二、三人あったが、半数程は残留を望みそうである。

 ほぼ全員の意向を確かめ終えて、張政は王碧の家に向かう。王碧は邪馬臺の王宮に近い一等地に住居を与えられている。季春の暖かな陽光に包まれて、家を繞る盛り土に腰を掛け、縫い物をしている王碧を張政は見付けた。張政はまだ六つか七つくらいの頃を想い出す。親の用事を言い付かって王家を訪ね、今と同じ様に縁側で裁縫の練習をしている王碧をた事が有った。張政はつい中国流の礼儀を忘れて、

「阿碧」

 お碧さん、と幼い頃の様に声を掛けた。別に見咎める人も無い。

「ああ、政さん」

 と王碧は笑って応じる。張政は隣に腰を下ろす。

テイ哥々あにきが子どもの礼服を作って欲しいそうだよ」

 と張政が切り出せば、王碧は、

「へえ、あの人にも子どもが――」

 と言い掛けて、

「政さんにも、さぞ可愛らしい子どもができた頃でしょう」

 と言い換えた。雀の群れが降りて、盛んな鳴き声が耳を覆い、風を待って飛び去る。

否々いやいや、僕に子どもはいないよ」

「まあ、とっくに結婚していないとおかしい歳なのに」

 年を数えてみれば、張政ももう三十三になる。しかしそれは王碧も変わらない。木の枝に並んだ雀も咲っている。雀が飛んで行くと、王碧は宮裏の方へ目を遣った。

「臺与さまはお寂しいでしょうね。女王さまが亡くなって、一人の話し相手もない――」

 張政の目もそれに従った。それは王宮と口では謂いこそすれ、洛陽の宮闕はおろか、帯方郡庁にさえ及びもしない。聳える城壁も、鱗の様な瓦屋根も無い。ただ柵に囲われ、丸太のやぐら、藁葺の殿舎は、倭人の土地では最も立派な造りだとはいえ、いずれも素朴な物に過ぎない。この遙か殷の時代を彷彿させる素朴な段階から、国々を脱け出させようと姫氏王はしていた。その行方はこれからどうなるであろうか、と張政は案じる。

「でも、もう還らないと。ここも好きだけど、八年も家を空けるなんて、悪いことね」 

 初夏になれば張政たちは、伊都の港から帯方郡へ舟を出す。臺与は大夫掖邪狗えこやこを正使として、総勢二十人の使節団を、張政が還るのに付けて洛陽へ遣わす。狗奴国の捕虜男女三十人が天子への貢ぎ物として連れて行かれる。倭地に残る者たちは見送りに集まる。突兀鋭もその一人である。

「おれは先王に一生分の扶持を約束していただいたからな。旅暮らしも懐かしいが、まあここに腰をすえるさ」

 臺与の侍医として留まるという突兀先生に、張政は訊いておきたい事が有った。臺与は年十三の今ならまだ良いが、成長すればもっと男らしくなって、女王の役などもうすぐ出来なくなるのではないだろうか。

「その心配は無いよ。臺与さまは美人に育つとおれが請け合うさ」

「まさか……、いつ?」

「先王も御承知の上だよ。おれの手術の腕前はあんたにも見せたっけ。馬なら脚を縛るが、人なら麻沸散をませるだけだ。中国では宦官にしかならないが、ここじゃ国王だからな」

 異例の事で、臺与も張政たちを見送りに港へ出る。しかし多くの護衛と女王の衣裳に包まれたその意思は、測り知れなかった。張政と王碧は同じ舟に乗り込んで、帯方郡への帰途に就いた。

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