酒紅の相

 虎の眼。獲物を狙う。鋭い輝き。闇を裂く光。恐ろしい程に澄んだ瞳……。それはもうこの世には無い。張政チァン・センは、夢に氏王の眼神まなざしを感じる。久しぶりの邪馬臺やまとで迎える朝。外では早起きの鳥が朝の挨拶を交わしている。

 邪馬臺のまちのほとりを、北から南へ邪州水やすかわが流れている。これを下って主流の川に交わる辺りの集落に、難斗米なとめ狗奴くな王を迎えた。六年前、若者らしい精悍さを帯びていた狗奴王の相貌は、昔とはすっかり変わっている。頬と鼻の頭は赤ばんで、かさの跡がぼつぼつとしている。頬はむくんで垂れ、鼻には丸い瘤が膨らみ、眼はどこか澱んでいる。まだ三十代半ばなのに、ずっと老けて見える。

 狗奴王は、巴琊斗はやとと呼ばれる近衛兵二十二人に取り巻かれ、身の回りを世話する女官八人まで引き連れて来た。その護衛の一団は、阿佐あさ迦佐かさという兄弟が指揮している。二人はもともと、常に八十人を揃えたという巴琊斗の中では、地位が低い方であった。しかし先王の死に伴って、高位の者が殉死したり、引退したりしたので、急に出世をして、今では巴琊斗の頭領格になっている。以前からこうなる事を見越して、太子時代の狗奴王に媚びを売り、それで恩遇を得たのだと噂されている。狗奴王は二人に政治まで任せていると云う。

 この村に難斗米は酒樽をいくつも備えさせておいたので、狗奴王は何日か留まる気になった。

 難斗米は多忙である。陵墓を営繕し葬礼を準備する一方、各地から続々と訪れる客を迎接する。それに何より、後継体制を作るという重い任務が、その両肩にのしかかっている。

 難斗米は、狗奴王の到着を前にして、諸国の有力者を夕食に招いた。対馬の領主対馬卑狗つしまひこ、一支の領主一支卑狗いきひこ末廬まつらの頭領末母離まつもり伊都いとの代官尓支にしの代官兕馬觚しまこ不弥ふみの代官多模たま投馬つまの惣領弥弥みみといった面々である。それに難斗米の副官都市牛利としぐり、邪馬臺の大夫伊声耆いせき掖邪狗えこやこらも出席する。難斗米は都市牛利と伊声耆に何事かを含ませる。張政はその意図を察した。

 日はとうに沈んで暗く、食事を終えて別れようとする時、都市牛利が全員に声を掛ける。

「さて亡王なききみのお葬式もすまぬところではあるが、政事まつりごとに乱れがあってはいけない。お世継ぎについていずれ決めなければならぬ。誰か申すべきことあれば述べられたい」

 むぐと押し黙って、誰も答える人がいない。重ねて問う。答える者なし。都市牛利が言う。

臺与とよさまをお世継ぎにとは亡王の思し召し。諸卿らも存知置きのことと思う。さればすぐにでも共に立てて王としたいが、どう思われるか」

 一同、事の大きさにじて、答えない。そこで伊声耆が口を開く。

「どうでしょう。臺与さまはまだ十三になられるばかり。王が務まるものでしょうか」

「ああ皆もそれがご心配とみえる。それで」

「それにが死ねばおとが跡を継ぐのが世の習い。歳の順ということがございます。狗奴の若王わかぎみをお迎えして王とすべきではないですか」

 やっと対馬卑狗が声を出す。

「うむ、そうじゃ。臺与さまはまだ幼くていらっしゃる。この際は弟君をお迎えするのがよかろう」

 一支卑狗も唱和する。

「おう、その通り。さすれば争わずして邪馬臺と狗奴は一つになる。それこそ亡王の望まれたこと」

 末母離も言う。

「争うのが何より良くない。もしいくさになれば、野蛮な狗奴の奴らと闘うのは骨が折れるではないか」

 掖邪狗は言い遮る。

「それでは、臺与さまはいかにたてまつる。亡王の墓前にも何と申し上げるのだ」

 弥弥が間に入る。

「まあまあ……。臺与さまは弟君の跡目ということになるであろう。亡王のご遺志に背くとは必ずしも言えまい。それで一つ手を打ってはいかがか」

 衆議の向かおうとする先は明らかであった。姫氏王が死んだ今、狗奴国と争うのはやめにしたい。とにかく波風を立てず、穏便に、苦労は少ない方が望ましい。狗奴王が相続権を主張するなら、それで都合が良いではないか。幼君を守り立てようという意見は少ない。難斗米は議論を打ち切らせる。

「みんなの意見はよく分かった。狗奴王とはわたしが話す。王の位は重きことゆえ、諸卿は他で人と会ってもたやすく口にしないよう願いたい」

 最後に一献を酌み交わし、客は宿に戻る。明かりが揺らめく会堂に、張政は残った。張政は難斗米と少し話しがしたいと思う。とそこで、それまで隅で黙っていた突兀鋭トツゴツ・ユェイが声を発する。

「難斗米さん、馬鹿なことをお考えではあるまいな」

 難斗米は口をへの字に結んだまま、先生を見る。

「おれも今日、狗奴王さんのご機嫌を伺ってきたが、あんな顔をしているのは何年も酒を呑みすぎるからだ。おれは方々に旅をして、いろいろな国のお偉方を観察したものだが、酒紅さかやけの相を浮かべてよく国を保ったためしはありゃしませんぞ」

 先生ご助言痛み入ります、と答えて難斗米は張政の席に膝を寄せる。

張政ちゃうせいさん、これを預かってもらいたい」

 難斗米は懐から、紫色の小袋を出す。巾着の口からは紫色のくみひもが垂れている。それは紛れもなく、あの〔親魏倭王〕の金印である。

「おれは侍臣さむらいとして、主筋のお方には義理がある。もし求められれば渡してしまうかもしれない。張政さんは天子に仕える身だ。おれに構わずその立場で行動してくれ」

 張政もその話しがしたかった。張政は皇帝の官吏として、天子に朝貢する者が治める土地の秩序が保たれる様に、必要とあれば介入する使命を帯びている。だがどうするのが最も良いか、これはなかなか難しい問題を含んでいる。張政はひとまず金印を預かった。

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