已に死す
今度の
航路は前と同じく、海岸に沿って諸韓国を経て、乗り換えの為に弁韓の
「張
そこには突兀先生が来ていた。
「頼んでいた物は持って来ておくれかな。……よろしい、これだけ有れば足りる。行き会えて良かった。さあ急いだ方が良い。難斗米さんもあんたに来て欲しいと言ってる」
「そんなに急ぎで、何の薬が要るんですか」
「ああ麻沸散だ」
というのは、一種の痺れ薬である。
「麻沸散なら、確か向こうでも原料が採れると前に言っておられたでしょう」
「ああ採れるが、これにも色々な調合が有ってな。処方によるんだ」
「目的によって違いが?」
「そう、医術を用いる局面は三つ有る。一つは病を避ける段。二つは患者を治す段。三つは……」
と言って先生は、一つ句を切って、声を低くする。
「……三つは、治らぬ病人を死に導く段だ」
先生はそれ以上は何も言おうとしない。ここには狗奴の人間も交易に来る。張政も押して問いはしない。どんな耳に聞かれるかも知れない。張政はとにかく舟の支度を急がせる。まだ荒れがちな季節なのに、不思議と波は穏やかで、ただ空の色が鈍い。狗邪を出て、対馬、一支を経、伊都の港まで何時に無く順調に着いた。
伊都国には小さい厩舎が出来ていた。この六年程の間に、張政の周旋により何頭かの果下馬を取り引きしたので、
「難
三人は馬に乗って走る。昼夜兼行で行くつもりである。張政はそこでやっと問いを発する。
「それほど良くないのですか」
「うむ、この冬に寒気に中られて、薬を差し上げれば熱は下がるが、ややもするとまたすぐに調子を崩される。春になっても寒邪が抜けず、次第に臓腑を
突兀先生は馬上で空を見上げた。西は深紅、東は漆黒で月は視えない。
「ああ、死期を測るのも医術だが――。とにかく行こう」
暗い内は松明を持った歩哨に先導させ、明るくなれば騎馬の三人だけで駆ける。
邪馬臺の
「可哀想なこと――」
「日がな一日あそこで、棺のそばを離れずにおられます。女王さまの頭巾を抱いて」
裁縫の指導をする為にここに残った王碧は、臺与の教育にも関わっていた。この六年、臺与の成長を近くで看ている。臺与には母なる姫氏王がこの世の全てであった。臺与はこの世の全てを、姫氏王の行為を通して感じて育った。狗古智卑狗――今の狗奴王は、あの後も何度か、姫氏王の不在を狙って来たという。この実の父も臺与にとっては、たまに会わせろと言って怒鳴り込んで来る怖い男に過ぎない。
「あの男が相続権を主張したらどうなるのでしょう。どうか臺与さまに悪くないようにして差し上げてください」
張政も戸の陰から臺与の様子を垣間見る。体の弱い男児は女子として育てれば丈夫になるという俗信に従って養われた臺与は、今も美しい少女に見える姿で、冷たい棺に傅いている。
「女王さまの容態が重くなられてからずっとああです。夜もなかなか寝付かれないので、先生に眠り薬をお願いしていたところでした」
訃報は早くも諸国に伝わり、狗奴王も弔問の意向を示してこちらへ向かっている。難斗米は狗奴王を丁重に迎え入れよとの指示を出していた。二三日後には到着しそうだと云う。まだ少し時間が有る。張政は旅の疲れを感じている。今の内に休んでおきたい。それにも関わらず、やけに眼が開く。突兀先生は麻沸散をわずかに包んでくれた。この粉を酒に溶かして
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