伝世の太刀
「王がお望みなら、
という
「解っている。言われるまでもないことだ」
西向きに建つ宮殿の上に、姫氏王は昇る朝日を背に受けて、胡坐で軒に臨んでいる。張政は庭で立礼の姿勢を執って、宮殿の影を受けている。
「出よ」
と王が命じると、脇から
「これを持て」
と立ち上がった王は、腰に提げた重そうな太刀を抜いて庭に投げる。太刀はどすんと逆さまに突き立つ。刀身には朝日に照らされて、中平六年という文字が浮かぶ。漢の霊帝の世、今より五十年程前の元号である。
「これはかつて我が祖父公が、
「ははっ」
と伊声耆はかしこまっている。
「汝はこれを持って
姫氏王は侍女の手を介して、その鞘をも伊声耆に渡す。
「ははっ、直ちに」
と立とうとする伊声耆に、王はもう一つの命令を与える。
「汝は手桶に塩を詰め、それを持って斗米に附け」
伊声耆は眉に険しい色を見せ、
「はっ、ははっ、承りました」
と太刀を鞘に収めて、恭しく額に押し頂き退出する。
「
そう言って伊声耆を送り出した王は、
「
と張政を呼ぶ。
「手間をかけるが、成り行きを見届けてもらいたい」
「は、それは……」
と言いかけて張政は、返す言葉を接げなかった。姫氏王は張政の返辞など待たずに、船の準備を侍女に命じ、出発の支度を始める。張政が、日の昇る前には全く予期しなかった速さで、それも思いの外の大きさで、事態は動き始めている。どうやら女王は要求を見越して予め用意をしていたらしいのだ。
張政は、この要求を持ち込んだ身として、また彼の友人としても、難斗米の事が気懸かりになる。伊声耆が持たされた塩詰めの桶は、首を入れる桶だ。あの命令は、奴王が金印を渡さなければ、この太刀で首を獲れという意味に違いない。君主として姫氏王を慕い、氏の長者として奴王を敬っている難斗米は、忠義と孝心に挟まれて苦しまずにはいないはずだ。
舟は
姫氏王の支配するこの国で、舟の上は尚更この王に近い面々で固められている。ここで何か申し立てをすれば、冷たい川に放り込まれる事になるかも知れない。しかし張政は、李陵の弁護をした司馬遷の心を知っている。何故その役目を難斗米に命じたのか、他にも人物は有るではないか、それを問わなくてはならない……。
「張政よ」
先に口を開いたのは姫氏王の方であった。
「何か言いたいことがあろう」
王は旅装でいつもの頭巾に笠を被っている。今はその眼光が、確かに張政の顔を射抜いている。そこで張政が舌を動かそうとする短い間に、王はまた先に問いを掛ける。
「
張政は舌を置き直して答える。
「
「そうであろう。あれは幼い頃から賢い。将来はもっと大きい働きができる男だ」
王は、わずかに目を細めて、難斗米が先に行ったはずの川下を眺め、それから東へ顔を向けた。
「見よ、張政。この東の山々の向こうにも海があり、その中にも倭人の別種が国を作っている。それもいずれは残らず我が手の内に収めたいものだ」
そしてまた北へ向き直す。
「その為にも、この
そこで張政は再び姫氏王の視線に捉えられた。
「しかしそれには、斗米が人々から奴王の跡目と見られていたのでは、駄目だ。それでは古きものに足を取られて、新しい仕事はできまい。足枷を断つのにどうすべきかは、斗米がよく判っておろう」
姫氏王は結局、張政に何も言わせなかった。
「あの頑迷なじじいは、金印を渡すまいからな」
川を下るのは上るよりもずっと速い。舟は不弥国の領域に入った。
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