果下馬の鼻咆え
舟は、川の流れが弱い所では漕ぐだけで遡る。流れがやや強くなると、舟に綱を掛けて、舟曳き人夫が岸を歩いて引く。地形により岸を歩けなければ、浅瀬に踏み入って進む。これでちょっとした川舟でも、馬の背に載せるよりずっと多くの荷物や人を運ぶ事が出来る。それでも遡れない様な難所では、皆で舟を担いで流れの良い所まで陸を歩く。舟を曳くのは辛い仕事には違いないが、倭人の雑役たちは働く事に対する素朴な喜びを恃みとして、足を前へ前へと進める。
颱風の為に足止めを喰ってから十二日目、
そうこうして時間を費やす内に、一行の中からは疲労や不調の訴えが出る。特に
こうして休んでいる間は、住民たちが作ってくれる物を食べる。倭人たちの食事は、粟や稗と魚や貝を中心とし、調理の方法は単純で、手の込んだ味付けはしない。魚は煮たり焼いたり、干したり漬けたりもするが、生でも食べる。一年を通して野菜なども新鮮な食材が多い。宴席などでは
張政が郊外で
「これ、なんだ?」
「これは、
「おんまぁ?」
男の児はそろそろと小雷に近付く。気性の温和な小雷は、額を下げて挨拶をする。張政はふと思い付いて、木の枝を拾って土に馬の字を書いた。
「これが、馬、という意味だよ」
と教えると、男の児は弾けそうな眼をする。山、川、などの判り易そうな字を書いて教える。これが記号の様な物だと理解したらしく、自分でも枝を拾って、やま、かわ、と唱えながら形を真似する。
「これが、あれさ」
と張政は、舟、という字を書きながら、丘から見える川の津に繋がれた舟を指す。と上流から、四人乗りくらいの小さい舟がやや急いだ風にして漕ぎ寄せる。舟の方から、おおい、と声を掛けると、津の番人が鉤棒を差して舟を引き寄せる。舟の人は岸に跳び下りると、投馬の
(
と張政は見た。一行の動静を問う姫氏王からの使いは、今までにも何度か来ている。これもそんな所だろうか。
男の児は教わった字を書くのに飽きて、小雷の額を撫でている。張政は男の児を田で働いている両親の方へ返すと、小雷を引いて邑へ向かう。所が張政は結局、邑から引き返して川へ行く。
「急なことで悪いが」
と梯儁は、勅使として張政に命じたのであった。
「姫氏王の御家中に病人があって、突兀先生に診てもらいたいとのことだ。先生を連れて先に行っていてくれ」
そこで、
「御案内つかまつる」
と言ったのは、邪馬臺国から使いに来た
「そのお病気を召された
突兀先生は薬箱を手に提げてばたばたと歩きながら問う。
「
と伊声耆は答える。
「はて女王さまは結婚をなされぬと聞いたが?」
「臺与さまはお身内に生まれた子で、母親が早くに身罷ったので、大王が我が子の如くに養っておられるのだ」
「その母親は、どうして死になすった」
という問いには、伊声耆は答えず、
「大王は、臺与さまを跡継ぎと考えておいでになる」
と返した。この会話は、川岸に着いたので打ち切りとなった。
張政は、小雷に舟を曳かせてみたいと思った。舟曳き人夫が一人でもかなりの人や物が乗った舟を引っ張るのだから、馬としては小柄な果下馬でも楽に行けるはずだ。小雷の胸に綱を懸け、舟に繋ぐ。舟には薬箱一つ抱えた突兀鋭と伊声耆が乘り、漕ぎ手が櫂を流れに差す。張政は轡を引いて、小雷をゆっくりと進ませる。さすがに軽いものだ。小雷の背に乘り、さあ、と促すと、小雷は、ぶるるん、と鼻を一つ鳴らして、本格的に歩き出す。
「おうい!」
と
「おいらもんまが飼いたいなあ!」
「大きくなったら、海を渡って買いに来るといい!」
それが今ひとまずの別れの言葉であった。
ここから邪馬臺国までは、荷物が多ければこそ時間もかかるが、距離はそう遠いという訳ではない。
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