老いたる奴王
張政は、
「斗米さん、どうかしたか」
と張政は訊いてみたが、難斗米は、うん、と曖昧な返事をする。難斗米が何を心配しているのか――それは張政には分かっている。
伊都国は、
海路で先んじて伊都国に入った
「あれをどうしようか」
と梯儁は張政に問うた。伊都の
伊都国の奴王は、敗れてなお名分としては倭人諸国を代表する地位を保った。これは奴王が〔漢倭奴国王〕の金印を
「まずは姫氏王に申し上げるのが筋だろう」
我々だけでどうこうする様な事ではない、という張政の意見は、梯儁も同じく考えている。それは勿論、姫氏王に
「伊都国には長居はせん方がいいな」
と梯儁は言った。自分たちが今回は、常の例とは違って、姫氏王へ直に賜物を届けるという使命を帯びているという事は、奴王へは已に伝えてある。奴王の金印を没収するという相談が進められているのだと知られれば、何かまずい事件が起こりそうな気がするのだ。恰も好し、梯儁たちの来訪を先触れする為に姫氏王の許へ行った使者も今日、奴王の所に戻ったと聞いている。梯儁は張政を伴って、伊都国の政庁へ向かった。使者が姫氏王からの「すぐに来い」との返事でも携えていれば都合が良い。難斗米は二人の後ろに着いて来て、政庁に着くと先に立って入った。倭人の文化が全て素朴であるが如く、政庁といっても簡単な小屋である。
今の奴王は、禿頭に白髭の老人であった。歳は五十ばかりだというが、それ以上に老けて見える。傍らには姫氏王の家来が、付家老としていつも控えている。奴王は、腰が曲がっても跡継ぎを選ぶ事さえ許されず、震える手でその古びた金印を握って、しょぼしょぼする目で左右を伺いながら、使節や荷物の出入りについて判子を押すという仕事だけをしている。それが奴王の手に残された権限なのであった。
奴王は難斗米が入って来るのを見るや、さっと顔に血の気を表し、杖を執って筵から立ち上がり、
「おのれ、斗米!」
と怒鳴りつけた。手足にも見違えて力が込もっている。
「おぬし、よくも氏の上であるこのわしに何も言わず、長いこと国を空けおったな!」
難斗米は床に額を付けて、畏敬の態度を示す。
「お、大叔父さま、わたくしに無礼があったなら、幾重にも膝を折ってあやまりますから……」
奴王は、おのれ、おのれ、と杖を振り上げて殴らんばかりの剣幕に、張政はあっと驚いて思わず止めに入ろうとした所が、奴王はまた急にしなしなと肩を落とし、背を縮こませて座り込んでしまった。
「ああ……それもむべなるかな。わしはこんなに老いぼれておるし、おぬしはひめわうに取り立てられて大夫の身分じゃ。我が一族でそうして出世しおるのは、おぬしだけじゃからのう」
そこへ傍らから、付家老の
「王よ、勅使どのの前でござるぞ」
と言って奴王を宥める。奴王はそこではっとして初めて梯儁と張政が居るのに気付いたという風を見せる。
「おお、おお……。御用向きはいかに」
梯儁は天子の使いという名目だから、立ったまま胸の前で手を合わせるだけの挨拶をして、それで謙譲の態度を示す。
「されば、別の道を執った者がたった今合流いたしたによって、すぐにここを発ちたいと思うが、いかに」
えへん、と梯儁は似合わぬ威厳を繕って問う。奴王は、例の如く目をしばたたかせて左右を伺っている。
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