梯儁の春の夢
この際に帯方太守はまた交替して、今度は
張政としても、海慣れしない御偉方を担いでその命令を仰ぐという形になるよりは、自分たちだけで行った方が安全だと考えて、その旨を具申した。弓遵にとっては実地を知る者からのこうした助言は有り難かった。それは太守が自ら行かないという十分な理由になった。結局の所、張政ではまだ若過ぎるというわけで、
東南の大海に出て姫氏王の国に至るには、身一つでならどうしても渡ろうと思えば何時でも行けない事は無いが、万全を期するには季節を択ぶ。今度の渡航は荷物も多いし、勅使として冊命を伝える失敗の出来ない任務になる。安全の為には夏を待たなければならない。張政はその間に、必要な人員の手配をしたり、賜物を載せた船が適切な時期に沖回り航路で青州から韓の
名目の上とはいえ、こう小偉くなってみると、それなりに交際という事をしなければならなくなる。給料が増えはしたが、交際費に出て行くので、懐にそう貯まりはしないのだと梯儁は知った。ただ借金だけがしやすくなった。それからその位の交際の場に出てみると、いい歳をして独身では格好が悪くなった。しかしそう急に嫁の来手が有りもすまいと思っていた所が、いい肩書さえ有るなら結婚の世話をしてやろうという人が世の中には少なくないという事も、梯儁は知った。張政から見ると、街頭で梯儁に会ってもそう気軽に「やあ
表ではともかく、家に上がり込んでしまえば兄弟同然のつきあいは変わらない。梯儁はよく酒瓶を提げて張政の家に遊びに来る。
「今朝も
安い酒をすすりながら梯儁はそんな事を話す。
「雒陽でおれは淑女と出会う。大きな宮殿の庭。太陽が耀くと、光が満ちて、美しい姿をかき消す……」
歌になりそうな調子で語りながら、梯儁は結婚という事について何か悩んでいるらしい。張政には張政で悩ましい事が有る。張政は司馬子上から直々に二つの内命を受けていた。その一つは、倭地の地理や風俗などについてなるだけ詳しく調査し報告する事。これは手間がかかるだけで難しくはない。もう一つは、かつて漢王朝が倭の奴国の王に授けた〔漢倭奴国王〕の金印が現存していれば、今度の〔親魏倭王〕の金印と引き換えに、これを回収せよ、というのであった。それは確かに現存しているのを張政は知っていた。しかしこの倭人の旧盟主の名誉である金印を要求して、受け容れられるのかどうかは全く分からない。慎重に探りを入れてみなければならない……。
「今度の旅は、荷の重い旅になるなあ」
梯儁は急に真面目な顔をして言う。
「もし海で嵐に遭って詔書や印綬を沈めることにでもなったら、勅使としておめおめと生きては帰れまい。その時はおれも海に身を投げずばなるまいて」
酒瓶は空になっている。梯儁が饒舌になると、張政は話しが尽きるまで聞いてやる。
「おれの嫁はろくに夫婦暮らしもせず、若い身そらで未亡人と呼ばれるだろう。それは可哀想だ。おれは何としても万里の波濤を越えなけりゃならねえ」
梯儁は杯に残った滴をちろりと舐めて、遠い目をする。
「ああ結婚をすると、雒陽の夢も見なくなるだろうな……」
張政は、梯儁の結婚の件がどのくらい進んでいるのかとか、いつ式を挙げるつもりなのかなどは訊かなかった。じきに蕗の薹が背を伸ばせば、張政たちは東南の大海へ向けて船を出さなくてはならない。
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