京師の大路
人の本名を普通は呼ばない、というのは漢人の間で当然の礼儀になっているが、倭人にもこれと似た習慣が有る。倭人たちも人の本名を呼ぶ事は避けるし、それ以上に自分の本名を知られるのを恐れている。本名を他人に取られると呪詛の種に使われるのだと云う。特に尊い人の本名はたとえ本人の前でなくても呼ぶ事をしないのは、礼儀というよりは信仰であり、畏怖し忌憚すべき事だとされている。こういうわけで、
「何てことはない、どうせ朝廷では判りっこないだろうさ」
と
「天子なるお方のお耳に入れるためというとも、
と難斗米は言う。都市牛利も同じ意見である。
十月になって、初旬の好天の日を選んで洛陽に入る事がやっと決まった。河内の南で
――下にーぃ、下にっ‥‥
という先触れが前を行き、往来する人々は端に退がる。子上の地位に与って、張政たちも道の中央を堂々と進み、何だか面映ゆい思いをさせられる。やがて洛陽城の偉容が明らかに見える頃合い、儀仗を装った騎兵を率いた貴人が一行を迎えた。それは司馬
「父上は、城門で待っておられる。疾く参るが良い」
と言った子元は、子上よりも風采が良く、篤実そうな顔つきに見える。
洛陽は、今より五十年ほど前、
洛陽城には、東西南北に三つずつの門が有り、それぞれ中央に位置する物がその方角の正門とされ、城中の大通りに開いている。東の正門で一行は司馬仲達の出迎えを受けた。仲達は、この年六十一歳で、これまでの功績によって位を太傅に進められている。
洛陽市中の大通りは、道路が三つに分けられている。中央を御道と呼び、車が九輌も並んで進めるだけの幅が有る。御道の両端には人の腰より高い程の垣が築かれ、道路を内外に分けている。御道は卿士大夫だけが通る事を許され、平民は左右の道を行く。道の両脇には楡と槐が樹えられている。大通りに接した区画には官や貴人の館が列ぶ。それらは全てこの二十年程の間に建てられた。その中にまた新たに
帯方郡邸の庭で、仲達と子元が上座に立ち、子上を先頭に張政と梯儁、難斗米と都市牛利が下座に並ぶ。
「禁裏にお取り次ぎ願わしゅう存じます」
と子上から帯方太守名義で倭人たちを送り届けるという文書が提出される。難斗米も、張政が代筆した姫氏王からの上表文を差し出す。もし内容に問題が有ると判断されれば、上聞に及ぶ前に書き直しを命じられるかもしれない。とそこへ、
「太傅どのっ……太傅どの」
息を切らせて一人の男が入って来る。姿を見れば公卿らしい身なりをしているが、顔はどこか飢えた野犬を思わせる。
「これは
仲達が声をかける。丁尚書とあれば、名は
「上奏は全て、尚書台を通すことになっておりますが」
と丁謐は言った。仲達は何食わぬ風で、
「ああ、そうだ。……それで?」
と問い返す。仲達が余り他人事の様な顔をするので、丁謐は気押される。
「た、太傅どのが規則を違えるのではないかと、疑う者がおりましたので……」
子元は何でもないという風をして、仲達の方を向いて言う。
「父上、丁尚書はお勤めに熱心でございますな」
仲達は殊更に老人らしくにこにことして、ゆっくりと声を出す。
「ああ……結構なことだ」
子元は一人肩を怒らせて眉を顰めさせているらしい事に、張政はその背中を見て気付いた。
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