帯水のほとり

 帯方タイピァンまちの眼前を、川が東から西へ流れて海に注いでいる。それが帯水タイかわである。帯水に臨むなだらかな丘の上で、明け方の空と川の流れる先を見比べながら、あれこれと話しをしている人の姿が見える。そこにはグェィ王朝から遣わされた進駐軍が陣を結んでいる。その兵士たちは、新帯方太守の劉昕レウ・ヒンに率いられて、大陸のツェン州やジョ州から渡って来たのである。彼らには川は東へ下って海に注ぐものと決まっている。だから帯水の流れ方がよほどおかしく見えるものらしい。

 劉太守の顔を視る機会もまずは有るまいという予想に反して、張政チァン・セン梯儁テイ・ツュンが呼び出しを受けたのは、九月一日の早朝の事であった。それも郡の政庁にではなく、郊外の野営地にである。案内に立った兵士たちは、

「こんな外地では、天地がひっくり返るみたいなこともあるものなんだ」

「なぁに、このくらいは驚くほどでもないのさ。東の海の中には、侏儒こびとの国や女ばかりの国もあるということだ」

「ああ、東母神の国というのだろう」

 などとあやふやな話しをしている。

 どこかそわそわとしている兵士たちの間を抜けて、陣幕が張り巡らされた中に入って行く。劉太守は胡床に腰をかけていたが、落ち着いたという様子は無い。案内の者は、

梯高雄テイ・カウユン張子文チァン・シェィムン両名、これに連れて参りました」

 と知らせる。

「おう、来たか」

 と言って劉太守は立ち上がる。二人が型通りの挨拶をすると、

「両名、まずはこれを見よ」

 劉太守は机の上を指した。そこには地図が広げられている。帯方とその南に続くカン地、そのまた南の地の一部が入っている。

「この地図は正しいかな」

 と劉太守に問われて、張政と梯儁は顔を見合わせた。それは急に作ったらしい粗略な地図だから、正しいと言えば正しくない事もないし、正しくないと言えばそうも言える。それに二人ともこんな風に地形を見下ろした事は無いのである。

 まあ大体で良いのだ、と劉太守が促すと、梯儁が答える。

「大まかには宜しいかと存じます」

 そうか、と劉太守は言って、ふむ、と独り頷く。

「郡の者に訊けば、なんじらがこの方面には最も詳しいということだ。それでこの所の状況について聞かせてもらいたい」

 との御下問である。そういうことなら話しは難しくない。まずは梯儁が韓地について説明する。

 韓は、帯方の南に在り、東西は海を以て限りとし、南は倭と接している。面積はおよそ方七百里――一辺が七百里の正方形に相当する広さ――である。韓人には馬韓マーカン辰韓ジンカン弁韓ビェンカンの三種族が有る。馬韓は西部に在り、定住して農業を営む。五十ヶ国ほどに分かれ、各々が首長を立てており、全体に号令する様な王者は存在しない。辰韓と弁韓は入り組んでいて境界ははっきりしないが、およそ東部に辰韓、南部に弁韓が棲んでいる。辰韓・弁韓は合わせて二十四ヶ国ほどで、やはり各々が首長を有する。辰韓には鉄の産地が有り、韓人・ワイ人・倭人はここから鉄を得る。彼らが貿易に鉄を用いるのは、中国で貨幣を用いる様なものである。楽浪ラクラン・帯方両郡もここから鉄を得ている。弁韓の涜盧づくろ国は韓地の南端に在り、倭と境を接している。

 次に倭地について説明するのは張政の役割である。

 倭は東南の大海の中に在り、或いは小島に一ヶ国、或いは大島に数十ヶ国をつくる。帯方郡で把握しているのは三十ヶ国ほどで、その多くは邪馬臺やまと国の王に統属している。郡より倭に至るには、海岸に沿って航行し、韓の諸国を経て、弁韓の狗邪くや国に船を着ける。そこは弁韓一の港市であり、大海の北岸に当たり、渡海の準備に適している。狗邪の港を船出すると、すぐに一つの島が有り、それが涜盧国である。その南端から東南を望むと、海に山脈を横たえた様な島影が見えるが、それが倭の対馬つしま国である。

「この海峡が倭と韓の境をなしています」

 と言った所で張政は一度説明を切った。その地図には、対馬までは自身の経験に照らして道を辿れる形で表されているものの、そこから先はかなり不確かに見えるし、図面上で十分な広さを与えられていない。

(地図を作るので呼ばれたのだろうか?)

 と張政はさっきから疑っている。どうもそんな雰囲気ではない。一方で海をよく知らない劉昕は、という耳慣れない熟語から何を想像して良いのか判じかねている。と言えば左右から高まりが迫った地形を指すが、海の峡とはどんなものなのだろうか。そこで劉昕はふと、

「その東南の大海というのは、一体どのくらいの広さがあるのだ」

 と問いを発した。張政と梯儁はまた顔を見合わせた。海の広さなどというのは有りうべき質問ではない。劉太守はどうやら、この楽浪地方と大陸を隔てている海くらいの小さい海域から、海全体というものを類推しようとしているらしい。その海域を楽浪人は西海と呼んでいる。西海でも海には違いない。しかし本当の海というのはそんなものではない。

「海の端を見たという人は一人もおりません」

 と張政は答えた。

(ちぇっ、おれが海を知らないと思って荒誕でたらめを言いやがるな)

 劉昕はそう思った。何にでも限りが無いはずはない。しかし自分が海を知らない事に違いはない。まだ聞き出さなければならない事が有るのだ。

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