最終話 祈り
平日午後。グリーンフォレストには光がふりそそぐように射しこみ、店内を明るく照らしていた。客はカウンター席の直人ひとりだけで、学生服も脱がずに持ち帰ったプリントを広げたまま、ぼんやりと奏を見つめていた。洗い物を終えた奏が聞いた。
「で。ひさしぶりの学校はどうだった」
「ああ、うん。フツー」
「そっか」
「姉ちゃんはどうだった」
「うん、フツー」
「マネすんなよ」
あはは、と笑う奏に、直人もつられて苦笑した。
心身ともに落ち着いてからの登校となったが、心配していたより何事もなく終わって、かえって拍子抜けしたほどだった。シゲちゃんが直人を突然体調を崩しての長期入院として手続きしてくれていたためかもしれない。休学中の質問さえもなかった。退院して間もないという話になっているので、無理に通常登校はせず、今週中は半日帰宅だ。
直人はため息をついた。
「つかれたみたいね。お昼も残してるし、今日はやすみなさい。お店は姉ちゃんひとりでだいじょうぶだから」
「いや、つかれてるわけじゃないし、店出るよ」
と言いつつまたため息をついたとき、ドアベルが鳴った。
まさかと期待したが、そこにはパート帰りのおばちゃんが立っていた。
「こんにっちはっ」
「なんだ、シゲちゃんか」
「あらちょっと。なんだとはなによ。じゃあ直人はおあずけね。奏ちゃんにだけあげる。差し入れのケーキ」
「わ。ありがと、シゲちゃん。コーヒー淹れるね」
ぱっと笑った奏に対し、直人はまたちいさなため息をついた。シゲちゃんは構わず直人の隣にどっかと腰を下ろす。
「なんだい不機嫌だね。登校日だったんだろ、なにか気になることでもあったのかい」
「べつに気になることなんか」
ないけど、と言いつつ直人の視線が誰もいないレジ台に止まる。
ばあん、と平手が背中に入った。シゲちゃんの平手は肉厚だからかなりの衝撃だ。
「いってえ」
「一輝くんが心配なのかい。だいじょうぶだよ。それに帰るって聞いた直人本人が信じてやらないでどうすんのさ」
「心配なんかしてねえよ」
「へえ、そうかい。心配でたまらないって顔に書いてあったよ。見間違いかい。じゃああたしもとうとう老眼かねえ」
「そうなんじゃねえの」
ふたたび背中に一発入り、直人は痛みに耐えるふりをしてうつむいた。そんなに心配してるような顔をしてるのかな、オレ。
鷺宮から戻って、じき三ヶ月になる。
あの夜、奏と手をつないで歩いてシゲちゃんの家に立ち寄った。預けた家の鍵を受け取りに行ったのだ。はじめはためらった。赤い髪は伸びっぱなしで全身は血と埃まみれ、奏の服も汚れたり破れたりしている。途中で休憩に寄った公園の時計は夜中三時すぎをさしていたし、不審者扱いされてもおかしくない状況だ。しかし寝起きのシゲちゃんはふたりの声を聞くなり、玄関を飛び出して抱きついてきた。
「よくがんばったね。よかった。ほんとうによかった」
号泣しながらそう言うシゲちゃんの腕のなかで、奏も号泣した。直人も気づいたら泣いていた。
風呂だけ借りて鍵をもらうと、家に帰ってすぐやすんだ。奏がどうしても弟といっしょに寝るというので、直人の布団のなかでふたり、泥のように眠った。時々うなされたり飛び起きたりしたが、隣の寝息に安心して、すぐに眠った。次の日には、心配していた髪も戻った。
帰宅して二週間くらいで奏は店を再開。生活のためというより奏が落ち着かなかったためだ。疲労回復に合わせて半日営業にし、メニューもかなり減らしての再開となった。
はじめは客の来店にどこかおびえるような奏だったが、直人が店の手伝いに入ったことで、しだいに以前のように店を切り盛りできるようになった。通常営業になったのはつい先日。ただ、駐車場だけはまだ閉鎖している。黒い車が停まると奏の体が震えてくるのだ。
直人も学校がはじまり、また日常が戻ってきた。
ただしひとつだけ欠けている。
一輝が帰ってこない。
「はい、どうぞ」
奏が人数分のコーヒーとケーキをカウンターに並べた。
「一輝くん、心配よね。早く帰ってきてくれるといいんだけど」
「ありがと、奏ちゃん。これ一度食べてみたかったのよね。だいじょうぶ。一輝くんは、すぐに帰ってくるわよ。こうやって噂をしていたら、ええっていうタイミングで帰ってくるもんだよ。意外と今日だったりしたりね」
ガハハと笑うシゲちゃんだが、直人はそういう気分になれなかった。
散らかしたプリントを鞄に突っ込んで、おもむろに席を立った。奏が目で追ってきたので、ぼそりと言った。
「ちょっと、裏。行ってる」
「ん、わかった。じゃあ、なにかあったら声かけるね」
直人は手を振って応えると店の裏口に消えた。
「アレは奏ちゃんより心配性ね」
奏もうなずいた。
「一輝くんがいないのはわたしもさみしいけど、わたしより直人のほうがきついみたい。わたしに話せないこととかあると思うんだ。帰ってきてからずいぶん経つけど、なにがあったのかもぜんぜん言わないの。それでもいいけど、苦しそうな顔を見るとつらそうで」
「奏ちゃんもね。言わないでしょ」
「え。あの、えっと、それは」
おろおろする店長に、客はにんまりと笑う。
「そういうことじゃないの。もちろん奏ちゃんも、話したくないなら話さなくていいの。でしょ」
「ごめんなさい、シゲちゃん」
「謝ることなんかないわよう。帰ってきてくれたし店もできるようになった。あたしにはそれだけでじゅうぶんよ。直人自身もいろいろあったんだろう。その証拠に前にくらべたらかなり男っぽくなったし。姉から見てもそう思わないかい」
奏もうなずきはしたが、同意まではできなかった。あのため息の量は、奏では減らすことができない。それがいちばん堪える。
シゲちゃんの手が奏の肩を叩いた。
「よしっ。ここはあたしに任せなっ」
「え。でもシゲちゃん、レジは使えないんじゃ」
「誰が一輝くんの代わりをやるって言ったのよ。ちがうわよ。直人を元気づけたいなら、あたしが直人にぴったりの彼女を紹介してやるわ。ちょうど会いたいっていう子がいてね。今行ってくるから」
立ち去ろうとするシゲちゃんを奏はあわてて引き止める。
「待って、待ってよ。それは困る。だって彼女なんて直人にはまだ早いし」
「あら、なに言ってるの奏ちゃん。直人は華の十七歳、青春まっただ中よ。彼女のひとりもいたほうがいいわよ」
「直人の意見も聞かなきゃ。それに直人はいそがしいから彼女なんて無理、ぜったい無理、ほんとに無理」
「あら、ずいぶん止めるわね。奏ちゃん、ひょっとして妬いてるの」
奏は水の入ったコップを倒してケーキを皿ごと床に落とした。
「ちが、ちがうもんっ。なんでそうなるのよ、直人のことでしょ、なんでわたしが」
「じゃあいいじゃない。それに、会ってすぐつきあえっていうんじゃないわよ。直人が好きだっていう子に会わせるだけ。じゃあ直人に店で待ってるよう言っておいてね」
「だから、直人にはまだ彼女なんかいらないったらあ! シゲちゃんっ!」
うきうき店を出る背中を、奏は引き止められなかった。
店舗の裏手に、こじんまりとした花壇があり、その隅にぽつんと石が置いてあった。直人はしゃがみこんで、そのまるみを帯びた石の表面をさすっていた。これはソラと巡査と円の墓だ。
ピンバッジは机の引き出しの奥にしまってある。服からはずそうと指をかけただけで記憶がありありとよみがえってしまい、それから手に取ることもできなくなってしまった。
鷺宮であったこと、感じたことはあまりにも苦しくて、口にもできない。忘れたくても忘れられない。聖をすこしでも思い出すだけで倒れそうになった。やっとふつうに笑ったりできるようになるまででもしばらくかかった。このさわりたくもない記憶は時間が経っても変わらずにあって、自分が死ぬまで引きずるんだろう。
それでも三人のことだけは想いたかった。せめて両親のような墓や位牌のようなものがあったらいいのにと奏に話したら、いつも側に感じられるように庭に石を置いてくれたのだ。仏壇とちがって陽も当たるし花もあるし空も見えるところにしてくれたのも、うれしかった。ずっと地下深くにいた三人が、やっと地上で過ごしてくれているような気がした。
置いてからは、この墓の前が直人の落ち着く場所になっている。まるでいつもそこにソラたちが居るようで、どんなに悲しくても苦しくても、墓を前にするだけでおだやかになれた。わかっているのか、奏もとくに止めたりしない。
あれから鷺宮がどうなったのかはわからない。奏に内緒で鷺宮の跡地にいくと、入口と出口は跡形もなく、雑草まで生えていた。一輝が地下に残っていないことを祈るしかない。
そう、一輝だ。どうして帰ってこない。一輝が長期不在にすることはたまにあった。しかしいつもなら一泊だろうと次の日には電話の一本もあるのに、連絡もないままもうすぐ三ヶ月だ。
いったいあいつはなにをやっているんだ。いいかげんにしろよと怒鳴ってやりたい。居候のくせに、どれだけオレたちに迷惑をかけたら気がすむんだ。いつも自分勝手で性格も悪くて女たらしでいばってて、特にオレには言いたい放題の嫌なヤツで。
だけど、鷺宮で奏といてもいいのか悩んだオレに怒ったのは一輝だ。シグマになったら殺してやるとも言ってくれた。聖を殺そうとしたことを止められたことはむかつくが、やはり止めてくれてよかったと思う。殺してたらオレは二度と奏の顔を見られなくなっていたかもしれない。
一輝にどれだけ助けられたのか。考えるほど今の状況が苦しくなる。嫌な予感がまとわりつく。なあ、一輝。まさかオレを先に行かせるつもりで「必ず帰る」なんて言ったわけじゃないよな。ああ言っておいて実はもう二度と帰ってこないつもりだったなら一生許さないからな。
だからこのままいなくなるなよ。はやく帰ってこい、一輝。
「どこに行ってんだよ。あのバカ」
つぶやいたとき、聞き覚えのある車のエンジン音が近くを通り過ぎた。聡美の車かと思ったが、ちょっと停まってすぐに走り去ったから、おなじ車種の車が走り去っただけだろう。コツコツと足音を立てて通行人が歩いていく。そうなんだ。自分が落ち込んでいようが、鷺宮でソラたちが苦しんでいようが、日常はおかまいなしに流れている。気が重くなる。
直人は何度目かのためいきをついた。
「学校はどうした、直人」
「ええっ!?」
待ち望んでいた声に驚いて立とうとしたが、足がしびれていてよろめく。
まるで買い物から帰ってきたばかりのようなケロリとした表情で、一輝は立っていた。
「一輝っ!?」
「なにやってるんだ、おまえは」
「そっちこそっ」
「聡美に送ってもらったんだ。駐車場が使えないからどこかに停めてくるだろう。直人は堂々とサボりか。学生は学校に行ってこい」
「今週は半日なんだよ。それよりおまえ、生きてたなら電話くらいしろっ。すっげえ心配したんだぞ。姉ちゃんもシゲちゃんも、聡美ちゃんだって、どれだけ心配かけたと思ってんだよ。店だって、オレがレジ打ったり姉ちゃんがやったりして忙しかったんだからな」
ふ、と一輝の表情がゆるむ。
「悪かった」
「姉ちゃんにも謝れよ。みんなにも」
「もちろんそのつもりだ」
「ったく。今までなにしてたんだよ」
「後片付けに手間がかかってな」
一輝は言った。
「あのクズは殺した。鷺宮も潰した」
「そっか。ありがとな。おい、よかったな。あそこ潰されたってよ」
石をなでる直人を、一輝は眉をひそめる。
「これ、培養室のヤツラの墓なんだ。石を置いただけだけど」
「そうか」
一輝は隣に腰をおろして手を合わせた。
「じゃあ出入り口とかも潰してきたのか」
「違う。俺は全滅させてきただけだ。地上は鷺宮の壊滅を知って身の危険を感じた関係者がやったのだろう。さすが仕事が早くて感心する」
「全滅って、まさか一人残らず」
「当然だ。地上に逃げた奴を追うことはしなかったが、あそこにいた人間は殺した。直人、遠野かファイを見ていないか」
「遠野って誰だよ。ファイはマスターとかいうヤツとどこかに行った。エレベーターでいっしょになってさ。気づいたらいなくなってた」
「そのマスターが遠野だ。いちおうおまえの父親だぞ、わすれたか」
「あれ、そうだっけ。わすれた」
「まあいい。遠野もファイも生きてるんだな。わかった。死体が見当たらなかったから、素材にでもなったのかと思ってな。逃げたか。賢明な判断だ」
一輝は立ちあがり、直人も追って隣で空を見上げた。しろい雲がながれていく。
「あいつら、どこに行ったんだろう。また会うかな」
「それは不可能だ。来る前に俺が殺す」
ぎょっとする直人に、一輝は真顔で続ける。
「当たり前だろう。見かけたときは、相手に盗聴器が仕掛けられていると思え。声もかけずにすぐ逃げろ。相手もそうする。黙って消えたのは身の危険を未然に防ぐためにすぎない。あいつらはもう名まえも外見も変えて身を潜めているだろう。会いたいと思っても無理な話だ。
いいか。身の危険はおまえにも言えるんだぞ。壊滅した鷺宮の実験体というだけでじゅうぶんリスクは高いんだ。国際指名手配のようにな。遠野の頭脳やおまえたちのような存在をほしがる機関は、世界中にある。表に出ないだけだ。鷺宮が壊滅したからと油断するなよ」
「そんなにやばいのかよ。じゃあオレも家からいなくなったほうがいいかな」
いきなり一輝は直人の頭もおもいきり殴った。
「いってえ」
「ふざけたことを言うなっ。おまえがいなくなったら誰が奏さんを守るんだ」
「でもオレがいるほうがやばいんじゃ」
また拳が入る。衝撃と激痛に直人は歯を食いしばる。
「だから俺がいるんだろう」
「いてえって。なんでそう殴るんだよ」
「直人。いいか。ここから離れるな。俺がいるここが、一番安全なんだ」
「へいへい」
「家出でもしてみろ、何度でも連れ戻すからな」
「げえ。過保護」
ふたたび拳が入る。
「俺との約束を果たさずに消えていいと思うなよ」
「それはもういいって。シグマでも無理だったなら無理だと思うし」
「違うな。直人じゃないと俺を殺せないということだ。いいか、こっちは真剣に」
なにやら店舗のほうからにぎやかな声が聞こえてきた。
「聡美ちゃんでも来たかな」
「そうらしいな。じゃ、俺も行くとするか」
うまく話をそらすことができて、直人はホッとした。
目の前を一輝が横切って裏口に向っていく。
背中を見て、直人は胸のあたりが熱くなった。一輝が帰ってきたことが、単純にうれしくて顔がにやける。
でも言わない。そんなこと、言えるわけがない。
直人は顔を見られないように、一輝を抜いて先に店にはいった。
「姉ちゃん、一輝、帰っ」
「きゃあああ、なおとおっ」
ドアを開けるが早いか、ちいさな塊が店から飛び出してきて直人の胸に張りついた。
四、五歳くらいのちいさな女の子で、頭の両端のリボンを揺らしながらぐりぐりと直人に顔を押しつけてくる。重い。そして痛い。
「なんだよ、この子」
「直人に会いたかったんだって」
「へ」
奏の不機嫌な声に、直人は疑問を目で訴えたが、つんと横を向かれてしまった。なにを怒ってるんだろう。
カウンターからシゲちゃんと聡美が笑っていた。
「かわいいでしょ。あたしの孫。実梨(みのり)ちゃんっていうの。前に話したでしょ、直人がたすけてくれた子よ。あれから直人のことが大好きになっちゃて、直人に会いたい会いたいってずっと言ってたのよ。だから直人の彼女候補に連れてきたってわけ」
「おりろ、重いって。シゲちゃん、オレ、この子をたすけた覚えはねえんだけど」
「みのりしってるもん。なおとだもんっ、なおとがみのりをトラックでぴょーんってごろごろしてくれたんだもんっ」
「ああ、あんときの。あれ、おまえだったのか」
「うんっ! だからなおとは、みのりのかれしなの」
「なんでそうなるんだよ。だいたいオレはまだ彼女とかいらないし」
「なんで。すきなこいるの?」
「好きな子って」
なぜか奏と目が合った。ふたり同時に顔が赤くなる。
「もう入っていいか」
背後から一輝が顔を出した。シゲちゃんが手をふる。
「あらっ。おかえり、マイダーリン」
「一輝、おみやげ渡したわよ」
「奏さん、静子さん、ただいま戻りました。遅くなってすみません。聡美、ありがとう」
「一輝くん、おかえり! もう、ずっと待ってたんだからね。元気みたいでよかった。お腹すいてるんじゃない。なにか作るよ。さ、座って座って。食べたいものとかある?」
「なんでもいいです。ずっと奏さんの料理が食べたくてたまりませんでしたし」
「姉ちゃん、オレ麻婆豆腐!」
「直人には聞いてません。お姉さんは一輝くんに聞いてるんです」
「えええ」
「なおと。みのり、まーぼどーふきらい」
「姉ちゃんの麻婆豆腐は特別うまいんだぞ。ていうか、実梨、下りろ」
「やあだあ」
にぎやかな店内を大切につつむように、夕陽がグリーンフォレストを照らした。それは花壇で揺れている花もちいさな墓標もおなじ赤に染める。
赤はゆっくりと暗くなり、次第に夜がおとずれ、雲ひとつない夜空ではいくつもの星がひかりはじめた。グリーンフォレストのはるか上でも、夕陽とおなじく大切なものを見おろすかのように、星はやさしくまたたいていた。
――ぼく、祈っているから。直人がしあわせでいられるように、いつまでも祈っているから……。
(20111025 了)
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