第2話

 一応、黙って待っていて気づかれずに家に帰られてしまう、という事態を回避するために、私は一言「傘を持ってきました。一緒に帰りましょう」とメッセージを送っておいた。

 それが気づかれるのかどうかはわからない。シルム君は真面目だから、そういう個人的なメッセージを見ても仕事中に返信することはあんまりないのだそうだ。


 大学が終わって、ふらふらと甲斐田と過ごした後、彼の会社近くのカフェで待つことにした。課題をしたり、本を読んだり、スマホでネットを見ていたり。随分と時間をつぶしたけれど、彼からメッセージが返ってくることはなかった。


 それでもかまわなかった。私は彼と再会するのを八年も待ったのだ。三時間くらい余裕で待てる。待つだけの退屈な時間も私は嫌いではないのだ。


 ふっと窓の外に目をやった。

 彼が気づきやすいように、窓際の席にしたのだ。雨脚は強まっているようで、ビニール傘を持っている人が八割、折り畳み傘や長い雨傘を持っている人が二割と言った人混みの中に、私の待ち人はいなかった。


「待ち人は来ませんか?」


 カフェのマスターだった。「ええ」と端的に返して、窓に目をやる。


「お代わりをどうぞ」


 そういえば、このカフェにも何度も来たっけ。

 彼とご飯に行くと決めて、彼が仕事で遅くなるときは、私はいつもこの店で待っているから。お代わりをサービスしてくれるほどの常連になってしまっていたらしい。


「仕事熱心な彼ですね」

「ええ、そこが好きなんです」

「そうですか。お熱いことで何よりです」

「ありがとう」


 決して褒めたつもりはなかったのだと思うけれど、マスターは「ごゆっくり」と笑ってカウンターに戻っていった。彼のそういうところは評価できるところだと思う。しかし、ときめかない。私の胸をときめかせるのは彼だけだ。


 私がこうして、待とうと思えるのも彼だけ。


「あの、おひとりですか? 相席構いませんか?」


 こうして待っていると、声をかけてくる人が少なからずいる。マスターはそれを呆れたような目で見つめているし、私は私で興味がないと、全身で語るように紅茶を飲む。


「連れがいるの。ごめんなさい」

「そうですか」


 今日の人はとても素直に引き下がってくれた。

 よかった。引き下がってくれて。こういう時、シルム君が彼氏だったなら、「彼氏を待ってるの」って言えるのに。

 シルム君が早く来ないと、私はそんなことばかり考えてしまう。


「俺なんかやめれば」って、シルム君は言うけど。

 私は「何でずっと待ってるんだ」って怒ってくれるのも、「仕方ないな」って微笑むのも、「今日は何が食べたい」って尋ねてくれるのも全部シルム君じゃなきゃ嫌なのだ。


「私、本当にシルム君が好きなのね」


 ぽつりと、誰にいうでもなく呟いてみる。今の言葉を聞いていたのは、多分私の目の前にあったカップだけだ。隣の席の人はおしゃべりに夢中できっと聞いてない。

 本当に届けたい人にも、届いてない。


 シルム君は私が彼のことを好きなのを、「思い出の美化」が生み出した感情だと思っている。

 だからと言って、それで私が引き下がるわけでもなく、こうして待っていたり、連絡をこまめにとったり、食事に誘ったりしているのだけど、それでも彼は私が他の年相応の男の子と付き合ったりしてもいいと思っているらしい。

 シルム君は、少し抜けている。

 シルム君でさえ私は年下と見ることがあるのだ、私と同い年の男の子なんてただの子供でしかないのに、それをまるでわかっていない。

 そんな抜けているところも私は好き。


「やっぱりシルム君ね」


 そう呟いて、二杯目の紅茶を飲むと、カランコロンと店の出入り口で鐘が鳴った。焦ってきたのか、少し額に汗をにじませたシルム君が店内をきょろきょろと見渡している。

 この瞬間を私は待っていた。



   *


「何でこんな時間まで待ってるんだよ!」


 時間なんて全く気にしていなかったので、そんなに怒られる時間なのかと時計を見ると、夜の九時を回ったところだった。


「シルム君は心配性ね、世の女子大生がこんな時間までカフェにいるなんてざらよ?」

「友達といるなら俺は何も言わないんだけどな……」

「それより仕事お疲れ様」

「ああ、どうも」


 寄ってきておしぼりを渡すマスターに、とりあえず「コーヒーください」とだけ言って、シルム君は座った。


「別に傘なんかその辺で買ったのに」

「相合傘したかったの」


 にっこり笑って答えると、呆れたようなため息が返ってきた。

 そういうの嫌なの知っているくせに、とでも言いたげな目が私を見る。


「ねぇ、シルム君知ってる?」

「何だよ、先生」


 私に「傘子さん」とあだ名をつけた彼が、私のことを『先生』というときは、少し嫌味を言いたいけれど、そういう言葉が思いつかなかったときだ。そんなところも愛おしいと思える。


「人の声ってね。雨の日の傘の中が一番きれいに聞こえるんですって」

「……そうか」

「だからね、シルム君の一番きれいな声を聞いてみたいと思ったの」

「後日にしてくれ」

「今日がよかったのよ」

「…………」


 大きくため息が一つ、シルム君から吐き出された。

 あ、折れた。


「お前を家に送るだけだからな」

「ええ。傘はそのまま持って行ってもらっていいから。来週返してちょうだい」

「俺に女物の傘を使えと」

「今日のは男性が持っていても不思議じゃないわ。それに周りの人間はそんなことを気にしないし、気にしたとしても『彼女に借りたのかな』って思う程度よ。シルム君は気にし過ぎなの」


 そうかな、と彼は笑って。

 そうよ、と私も笑った。


「あ、だめだわシルム君」

「何だ」

「私お腹が空いているの」


 そうだ。甲斐田と少しおやつ程度にファーストフード店に立ち寄ってから、三時間は裕に越えていて、私の腹の虫が小さくくぅ、と鳴いた。私の言葉を聞いて、シルム君はまたため息を吐く。


「何か食べたいものは」

「そうねー、おそばが食べたいわ」

「はいはい。定食屋でいいですか。先生」

「いいわよ」


 シルム君の連れて行ってくれるお店はどれもおいしい。

 だから、ご飯に連れて行ってと頼むのだけど、今日は少しだけ遠回りをして帰りたかったと言ったら、彼は怒るかしら。


「ねぇ、シルム君知ってる?」


 傘を開くと、当然のようにシルム君が私の手から傘を奪った。

 以前、相合い傘をしなければならない事態になったときから、シルム君は私と相合い傘をするときは、すっと持ってくれている。

 他にもシルム君は紳士的で、車道側を歩くだったり、大きな荷物は持ってくれたりなんかもする。お姉さんの教育のたまものであるらしい。


「今度はなんだ」

「私ね、ずっとシルム君が好きなのよ」

「…………それは知ってる」


 随分と間が空いた返答だった。雨の音がより大きく聞こえ、その音が私の不安を煽ったことに、彼は気づいているのだろうか。そんなことを言うわけにもいかず、間が空いたことだけを指摘すると


「本当だな、と思ってさ」


 と、シルム君は私の方を決して見ることなく、呟く。

 当然私が何のことかはわかるはずもない。


「え、何が?」

「さっき言ってた、雨傘の中が一番声が綺麗に聞こえるってやつ」

「え?」

「さっきの告白が、ちょっとぐっときたっていうだけの話だな」

「それは私にとって『だけ』ではないのだけど?」

「そうか。それは悪かった」

「本当よ」


 少し怒ったように話すと、シルム君は少し笑って「そういう怒った顔は子供っぽいのにな」なんて言う。そんな風に見てほしくて怒っているわけではないことを知っているくせに、そういうことを言うのだ。彼は。

 でも、そんなところが好きだなとも思うから、我ながらどうかしているんだと思う。


「じゃあ、そうだなお詫びとして。飯食べた後、喫茶店に寄り道するか」


 雨も止みそうにないことだし。とシルム君が付け加える。


「……それで手を打ちましょう。雨、止まないといいわね」

「……そうだな」



 ――ねぇ、シルム君知ってる?

 ――「雨が止まないですね」という言葉には「もう少し傍に居たいです」って意味もあるのよ。


 ――知ってるよ。

 

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傘と雨音 山西音桜 @neo-yamanishi

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