寄り道
*
その頃は、アシュ一行の馬車は、フェンライの邸宅に刻一刻と近づいていた。先ほどキチガイ主人が行った警告(覗きを誤魔化すため)によって、すっかり旅行気分を害された生徒たち。
「……」
中でも、勤勉真面目美少女のシスは、その事を真剣に捉えていた。彼女は、他の生徒たちと違って防御魔法が使えない。いざ、彼らと戦闘になった時に、どのような対処をすればいいか、考えあぐねる。
「あの……アシュ先生。その、幻術を扱うシルミ一族と言うのは、どんな人たちなんですか?」
「ん? ああ、前にも幻術の話はしたと思うが、高度な幻術は現実のそれよりも強力だ。実際、腕が切り刻まれたと思い込めば、血がひとりでに流れるように」
「……でも、それは通常の幻術でも可能ですよね?」
「まあね。シルミ一族ほどになると、それを遥かに超越する。例えば、地面が上にあるとするだろう?」
「「「「はっ?」」」」
アシュの仮定に、生徒たちが思わず聞き返す。
「例えばの話だよ。対象者が仮にそう思い込むことで、日々の生活を逆さまで生活するようになる」
「あの……言っている意味が全然わからないんですが」
「シス、君はもっと柔軟に考えたほうがいいね。真面目なのは美徳だが、頑なな思考は幻術使いにとっては格好の餌だ」
「先生! シスじゃなくたって、私だってわかりませんよ。説明が不足してるんじゃないですか!?」
「……君はまず、常識を覚えたまえ、リリー=シュバルツ君。教室で講義をしてるんじゃないのだから、そんな大声を張り上げてみんなの鼓膜を不快にすることもあるまい」
「ぐっ……」
金髪美少女は悔しげに黙り、生徒たちは『た、確かに』と、耳を塞ぎながら頷く。
「それに、説明が不足すると言う前に、僕が提示したシチュエーションを少しでも想像してみたかね? 仮に天地が逆転してみたら、君たちはどんなことになるか。シス、僕は君の欲する答えがそこにあると思うがね」
「……」
藍色髪の美少女は素直に目を瞑り、想像する。仮に天地が逆になったのなら。まずは、天井を歩かなくてはいけない。地面がないのだから、天井以外の場所に浮いて……いや、落ちてしまったら、即死だろう。となれば……
「地面に自分の身体を接地させ続ける必要があると思います。ロープかなにかで」
「なるほど、君は魔法が使えないから、なにか道具を使う訳だ。いいんじゃないかな」
アシュはシスの髪を優しげになでて、他の生徒たちの方を振り向く。
「ダン君はどうする?」
「俺は……精霊魔法を召喚して、精霊におぶって貰おうかな」
「いい答えだね。精霊には地の概念がないから、ともにいればあらゆる不便を防げるかもしれない。リリー君。君は?」
「私は……そんな事はあり得ないので、想定する意味がわかりません」
「なるほど……君らしい答えだ。だが、彼ら一族を相手にした時には君が一番苦戦するだろうな」
怒るでも、あざけるでもなく、アシュは興味深げにつぶやく。そんな様子に金髪美少女も反抗をやめて、真っ直ぐな視線を送る。
「先生……私、本当にわからないんです。いつものイジワルじゃないんですか?」
「……それは心外だね。僕がいつ、いかなる時に君にイジワルなんかしたのか」
「「「「……」」」」
いっつもだ、と生徒全員の想いは一致した。
「まあ、そんなことは置いておいて。リリー君はそのような答えを出すような気はしていたよ。君は、基本的に物事の事象に抗って生きたいタイプだからね。なにかに身を委ねるということが苦手なのだろう」
「……いけませんか?」
「いや。素直に答えることは、自身の想いを偽り、取り繕った答えよりも本質を捉えている。よくできました」
やはり、アシュはリリーの頭を優しくなで、金髪美少女の顔がリンゴのように赤くなった。
「幻術というのは、脳に直接働きかけるものだ。君たちの視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚を操作してありもしない事象を創り出す。だが、シルミ一族はそれだけではない。彼らは、君たちが描いている常識という概念を狂わせる」
「……」
「それに対抗する手段は、人それぞれだ。一番簡単な方法は、常識を広げること。例えば、天地が逆になる事象を即座に受け入れて行動する。感覚がついてこないという事態を避けるために、積極的にその思考に至るということだ」
「……」
「まだ、わからないかい? ならば、教えてもらいに行こうか。近くに、僕の友人の一族がいる。ミラ、案内できるかい? おっと、いきなり押しかけるのも失礼だから、前もって伝えておいてくれよ」
「……かしこまりました」
有能執事は馬車の業者に指示して、方向をしばし変更する。そして、黒い鴉に手紙を括りつけて知人のシルミ一族の元へと飛ばす。
「……」
数時間後。受け取ったシルミ一族の女性は、その手紙をビリビリに破り捨てた。
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