欠落
朝陽が昇り、禁忌の館の窓に光が差し込む。まぶたでそれを感じるや否や、ベッドから起きると、すでにダージリンティーがおいてある。アシュはカップを傾け、数秒ほどその液体を舌先で遊ばせる。
「……違うな」
寝起き魔法使いはボソッとつぶやく。
「なにがでしょうか?」
と執事のミラが質問する。
「ミュール地方産は最近の気分ではない。苦味がすこしだけ強い。朝はもっと爽やかな味覚を感じたいんだ。次は、カジュナス産にしてくれ」
「……それがカジュナス地方産でございます」
「……」
「……」
・・・
「とにかく、頼んだよ」
「かしこまりました」
出口の見えないバカ舌魔法使いの指示に、ミラの答えは『YES』のみだった。たとえ、汚物を混入したとしても、まったく気づかなさそうではあるが、主人に不誠実な行動ができないようになっているため、仕方なく想像で好きな銘柄を選ばざるを得ない。
学校がない日のアシュ=ダールの1日は長い。螺旋階段を降りて、一階に到着するとすでに円卓に朝食が並べられている。無表情で椅子に座りトーストを一口かじる。
「ギュセーナ地方産か?」
「シボッチク地方産でございます」
「……そうか」
モグモグ。
モグモグ。
「……」
付け加えるとするならば、小麦が硬めのシボッチク産と柔らかめのギュセーナ産は、ふんわり度において対極である。完全になにもわかっていない。それゆえ、料理しがいをまったく感じることができない。
必然的に充足感皆無の、悲しき執事である。
そんな彼女の嘆きを知る由もなく、バカ舌主人は、サラダを取って野菜をひとつひとつ味わいながら食べていく。アシュ自身、食に対する興味は大きくない。
しかし、アレやコレやと女性の前でウンチクを語りたいがために、必死になって産地を調べる。そして、勉強する。その上で、やはり細かい味に興味がないので、わからない。ただ、その繰り返し。ある意味では、非常に努力家であることは間違いない。
それゆえ、学校がない日のミラの1日は長い。
朝食を終えると、研究の時間が始まる。とは言え、アシュの集中力にはムラがある。若い頃はほぼ24時間眠らずに従事してきたものが、昨今は数時間集中できればいいというところ。一度スイッチが入れば不眠不休でいつまででも没頭しているのだが、それまではアレやコレやと雑念を思い浮かべたり、他ごとをしたり、結構せわしない。
これは、決して老いからくるものではない。単に外部的な刺激への慣れのためだ。経験というものは、物事に対して動じなくさせてくれる効果もあるが、感情の振れ幅を抑制させるという効果も持つ。数百年を生きてきた闇魔法使いにとって、外部刺激はほとんど無くなってしまっている。
「そう言えば、テスラ先生はどうしている?」
そんなとりとめのない質問がくると言うことは全然集中できていないのだと、ミラは判断する。
「セナという従者とともに、近くの教会に下宿しているそうです」
「ふむ……セナ……誰だったかな?」
どうやら完全に記憶から消えているようで、主人は小首を傾げる。
「アシュ様が『死ぬまで追い詰めろ』と命令した者です」
「ああ……そうだったんだね」
未だ覚えていなさそうだったが、なんとなく相槌をうつ。すでに記憶の片隅にもない者に、そんな命令を下す人格最低主人に、心の中で軽蔑の念を抱く人格最高執事。
「であれば、もうその命令は解除してよろしいのでしょうか?」
「なぜ?」
「アシュ様がお忘れになっているんだったら、その者を追い詰める理由もなくなります」
「ふむ……君はおかしなことを言うね?」
「そうでしょうか?」
あなたの頭がおかしいんです、と心の中で叫ぶ有能執事。
「そうだよ。だって、過去の僕がそう指示したんだろう? だったら、それでいいじゃないか。今の僕は覚えていなくても、過去の僕が彼の所業に対し罰を下すと判断したわけだろう? 僕だって、そう簡単にそこまでの指示はださないよ。よほどそのセナとかいう彼は僕にとって気に喰わない存在だったということなのだろう」
「でも、覚えてらっしゃらないんですよね?」
「覚えてなければ、加害者の罪は消えるのかい? 殺人者は、遺族が全員死ねば罪が償えるのかな? 僕は違うと思うけれど。罪が消えるとするならば、僕が彼を許した時だけだよ」
「……では、質問を変えさせてください。どうすれば、あなたはその従者を許すのですか?」
心やさしきミラは思う。すでに、忘れ去れれた罪で、今この瞬間も頭を抱えて苦しんでいる彼を見てはいられないと。
「まあ、まずは僕に思い出させた上で、許しを請えばいいんじゃないかな。忘れてるものはどうしようもないからね。そうしに来ないところを見ると、彼は許しを求めていないか、自分が悪くないって思ってるのだから放っておけばいいんじゃないか?」
「……」
「納得できないかい? 5歳の子どもでもわかることなのに。母親はね、悪いことをしたら謝れと愛する子に教えるんだよ。僕も彼にそうであることを望んでいるだけなんだよ……まあ、神以外に頭を下げることをよしとしない輩には難しいことかもしれないがね……ククッ……ククク……ハハハハッ、ハハハハハハハハッ、ハハハハハハハハハハハハッ……」
白髪の魔法高いは愉快そうに高笑いを浮かべる。
「……かしこまりました」
最もらしきことを言っているように見えて、目の前の男はなにかが狂っている。人が当然感じる慈悲の欠落。他人への共感能力の不足。子どもならできて、大人になってできなくなるという弱さをこの男は許さない。それが、もともとそうだったのか、徐々にこうなってしまったのかは、もはや本人ですらわからない。
「そんなことより、彼女は……テスラは面白いよ」
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