さあ


 遠足日当日。午前5時にライオールが職員室に入ると、エステリーゼがすでに座って準備をしていた。


「ほっほっ……早朝から熱心ですな」


 理事長が機嫌よく笑い、その白いひげが小気味よく上下する。


「おかげ様で。担任が全然準備をしませんので」


 不機嫌そうに苦笑いしながら、メガネ美女は準備を続ける。


「あなたを副担任にして正解でしたな。アシュ先生は美人に目がありませんので」


「……私の目には、にも目がないように見・え・ま・す・がっ!」


 本を整えるために、数冊を縦に振り下ろし、ドンっと鳴らす。その音がかなり大きく、彼女がいかに不快感を示しているかわかる気がした。


 ちょっと怖い……とは温厚な老人の感想である。


「まあ、この調子でアシュ先生の手綱を引いてもらえたら。あの方は自由奔放な駿馬のような人ですので」


「その例えは駿馬がかわいそうに思いますが、わかりました」


 勢いよく立ち上がってエステリーゼは、ズンズンと歩いて職員室から出ていく。


 やっぱり怖い……とは怯えた老人の感想である。


              ・・・


 午前8時。誰もいなくなった職員室の掃除を始める。これは、ライオールの趣味であり日課でもある。教師陣には、この綺麗好き理事長の天然プレッシャーが、ひそかにストレスだ。


 その時、


 バーン


 ドアが開き、物々しい音が鳴り響く。雑巾がけをしていた理事長が見上げると、エステリーゼがズンズン入ってきて、厳しい表情で地図を広げ始めた。


「……あの、遠足では?」


 恐る恐る不機嫌美人に問いかける。


「誰も……待ち合わせ場所に来ませんでした。学生寮にも誰もいません……それと、こんな手紙が」


 そう言ってライオールに手渡す。


「ふむ……『親愛なるエステリーゼ=ブラウ様へ。漆黒の真夜中に浮かぶ月のように美しいあなたへ。あなたの言葉にできぬほどの美しさをあえて表現するならば――」


「前半部は駄文ですので。ここからが本題です」


 彼女は、3ページ目の中盤を指さす。


「……僕は、昨日のことで彼らの想像力の低さを思いしりました。まさか、これほどとは……教師である僕も少なからず責任を感じております。よって、今回はそんな彼らにシルササ山の素晴らしさを知ってもらうために実際に連れていきます。どうか心配しないでください。君とは時間がある時に、ゆっくりディナーでも。中々いいワインを飲ませるレストランを見つけたんだ。そこで、君の美しさの謎について――」


「そこから先は駄文ですので」


 エステリーゼは手紙を取り上げて、ぐしゃぐしゃにして、ポイ。


 それからすぐに、地図に書かれているシルササ山のページを食い入るように見つめる。その間、彼女の手に握られていたペンはベキッ……ベキベキベキベキと無情に折られていく。


 凄く怖い……とは震えた老人の感想である。


 エステリーゼは、かつてライオールが担当した特別クラスの教え子である。非常に優秀な成績で、将来を大きく期待していた生徒だった。しかし、彼女はあまりにも恩師を敬愛し過ぎた。


 ライオールは聖闇混合のバランス主義者である。背信主義者ほど迫害を受けているわけではないが、中央の役人では聖信主義者が圧倒的主流だ。堂々とバランス主義を主張する彼女にその席はなかった。


 教師という職業は、生徒自身の人生を、思想を大きく変えてしまう可能性を持つ。自分が最善と思っていたことが、実は思ってもみなかった結果をもたらす。エステリーゼをバランス主義へと傾倒させ過ぎてしまったのは、ライオールが生きてきた人生における悔いの一つだ。


 落ち込んでいた彼女に、助手を務めてほしいと依頼した。その行為に、少なからず贖罪の気持ちがあったのは否定しない。しかし、それ以上にアシュ=ダールと言う男を見てほしかった。


 彼は起爆剤のような人間だ……いい意味でも、悪い意味でも関係を持つ相手を刺激し大きな変化をもたらす。


「しかし……少し効き目が大きすぎたかな……」


 今、目の前にいる美女は目論見通り元気になった。しかし、凄まじく怖くなったとは老人の秘めた感想である。


「なにか言いました?」


 メガネの奥にある瞳は怒りで満ち満ちている。


「い、いえ。しかし、困った人ですな」


「ええ! まさか、彼が約束を反故して、生徒を拉致して、副担任を置き去りにするとは思いませんでしたわ」


 メガネ美女の頭には怒りマークが3つほど。


「ま、まあ起きてしまったことより、現状の事態を対処しましょう」


「……はーっ、そうですね。すぐに、馬車の手配をいたします。あの最低男……今度はビンタだけじゃ済まさないんだからっ」


 物騒な言葉を残し、エステリーゼは憤然と職員室を出ていく。


「しかし……本当に困ったお人だ」


 ライオールはなんとも言えない苦笑いを浮かべた。


                 *


 ナルシャ国の首都ジーゼマクシリアから馬車で丸半日。雲を貫くほどの標高であるシルササ山は、人が寄り付かないほど厳しい霊峰である。この山は、人がよりつかない理由としては数えてもきりがないほどの危険個所を持つ。


 走行可能な山のふもとまで到着し、十数台の馬車は、爆睡している特別クラスの生徒40人を残して立ち去っていく。


「さすがは我が執事。見事な手際だ」


 爆睡している生徒たちを眺めながら、アシュは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


「……私は、こんなに嬉しくないお褒めの言葉を、今まで聞いたことがありません」


 遠足前日、有能執事は特別クラス全員の部屋をまわって、睡眠薬入り紅茶で眠らせた。彼女はその美しさ、気配り、優しさから絶大な人気を誇っているので、疑う者は少なかった。しかし、疑う者には漏れなく魔法で気絶。


 見事に、彼らの信頼を、真っ向から裏切った形だ。


「まったく………嘆かわしいね。ミラが仮に敵であったら、彼らは即死だよ。教師である私としては、生徒の不甲斐なさの責任を取らなければな」


 性悪魔法使いの発言に、ミラ、思う。


 嘆かわしいのは、あんたの脳ミソだよ、と。


<<光よ その闇を照らし 聖者を目覚めさせよ>>ーー朝の光明シル・リーン



 有能執事が詠唱すると、まばゆい光が彼らを包み、一瞬にして生徒たちの瞳は開いた。


「ここ……どこ?」「な、なんで森の中にいるの」「俺、紅茶飲んだら急に眠くなって」「ミラさん、これ……どういうことですか?」「私の部屋じゃない。なんで………」


 目覚めた彼らは口々に声をあげる。


「さあ、諸君……遠足を始めようか」


 満足そうな笑みを浮かべるキチガイ魔法使いであった。

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