最終話
「よし、終わり」
ペンを置いて、手の甲で額の汗を拭う。
課題を早めに終わらせると言っても、短期間で全部やることなんてできない。各教科から問題集はもちろん、それ以外にもたくさん提出しなければならないのだ。
しかし、問題集は一学期に習った範囲のものであるから、ボリュームはそれほどない。頑張れば二日、三日で終わる。問題集だけ先にやってしまおうと二人で決めたのだが。
先輩は俺が終わったと言ったことにすごく驚いている様子。
「先輩はどうですか」
気になった俺がそう聞くと、ゆっくりと積んでいた問題集をたぐり寄せ、机の下に忍ばせた。
俺はそれを視界の端で捉えていたが、まだ気づいていないふりをして彼女の目を見る。すると、彼女は気づかれずに動かせたのだと瞳に安心の色を浮かべた。
「私はあと一つかな」
ダウト。これは嘘である。
先程こっそりと動かしたのを見たのもあるが、それよりも先輩がいつも嘘をつくときにする表情になっているからだ。
「今しまったの出してください」
手を出して言うと、今度は嘘がばれた時の不満げな表情に変えて机の下から問題集を出した。
食い下がるかと思ったが、案外早く折れた。微妙な面持ちで手渡してきた問題集は四つ。その内、終わっているのは二つだけだった。
「全然終わっていないじゃないですか」
「キミが早すぎるだけだ」
ふいっとそっぽを向いて腕を組む。
「にしても酷いですよ」
「いいや、そんなはずはない。去年もこれくらいのペースでやっていたからな」
それが留年の原因の一つであるはずなのに、なぜ余裕ぶっていられるのだろうか。大丈夫だと言い張る彼女に、率直に思ったことを言ってみれば、顔をしかめた。
しばらくして、ギギギと錆び付いたロボットのような音が聞こえてきそうなほどに、ぎこちなく腕を動かし、机の上に放り投げたペンを取り直す。
俺たちがこうして二人きりで宿題を片付けることになったきっかけは、夏休みに入る前日の教室でのことだった。
「明日から夏休みだな、高森くん」
俺が友達と他愛のない会話をして別れの挨拶を言い、ようやく帰り支度を始めた頃、彼女が例の如く、俺を見下すような位置から話しかけてきた。
先輩の身長は女子にしては高く、男子の平均くらいあるだろう。そのため俺が椅子に座っているとかなりの差が出る。見下ろされるのには慣れているが、慣れるのと許せるのとは別の話で、この人のことは好きなのだが、大人になりきれない俺はどうしてか許せない。
友達は俺の気持ちを悟って気をつけてくれるのだが、なぜか先輩はいつも俺が座っているときにしか話しかけてこない。最早故意にしか思えない。
「そうですね」と愛想のない返事をする。
その時の俺はせっせとリュックに教科書を入れていたので、先輩の顔を見ていなかったが、おそらく頬を膨らませるか唇を尖らせるか、なにかしら不満を伝えようとしていただろう。そのサインに気づくことができていれば。
「夏といえば海とか縁日とかだな、高森くん」
「そうですね」
「楽しみだな、高森くん」
「まあ、そうですね」
「ところで海はいつ行くんだ、高森くん」
「はい?」
思わず教科書を持った手を止めた。なんの冗談だろうか。
「全然その話をしないじゃないか。計画をせねばならんだろう」
おかしい。今まで彼女からこんなお誘いなんてなかった。どういうつもりだったのだろうか。しかし、その時の俺は怒りで我を忘れ、そんなことも考えられていなかった。
どうやら目の前にいる長身の少女は冗談で言っているわけではないようだ。俺の記憶に彼女と遊びに行く約束をした覚えはないが、彼女の中では決定事項になっているらしい。
「俺は宿題やりますから遊びにとか行けませんし、そもそも先輩にだって、他に一緒に行く友達がいるでしょ」
偉そうで人のことを弄ってばかりな人間だが、こんなでも友達くらいいるだろうと思っての言葉だった。
「キミ以外に友達はいないよ」
唇を尖らせて口ごもりながら話す。そんな寂しそうな顔をする少女に、俺は無慈悲な一言を放つ。
「知るか」
たった一言。その一言と勢いに任せて言った次の言葉が、そんなに彼女を傷つけてしまうものだったのだと気づきもしなかった。
「そんなに行きたいなら、どこか他の人でも当たってくださいよ」
「なんだそれ」
これまで似たように先輩の言葉を適当に流すことはあったけれど、彼女がこんな顔をしたところは見たことがなかった。
ここでようやく俺が酷く、不誠実な対応をしてしまったのだと気がついた。謝らなければ、と声を出そうとしたとき、俺の言葉を遮るように先輩が言った。
「もういい。悪かったな、無理を言って」
先輩は自分の席に戻ってカバンの中にさっさと荷物を入れていく。俺も謝る機会を失って、仕方なく持っていた教科書を入れ、最後に筆箱を入れて帰り支度を終える。
教室が静寂で包まれている。謝りたいのに、静かで重々しいこの空気がそれをさせない。
この空気間の中、喋りだすのはなかなか勇気のいる行動ではあるが、このままでは罪悪感に苛まれて四六時中彼女のことを考えることになるだろう。
「あの……」
ぼそりとつぶやく。声をかけたつもりだったが、彼女に届いていないのだとわかり、恥ずかしさを堪えて大きな声で言った。
「夏休みが始まったらしばらくの間は家にいると思います」
突然、耳に届いた大きな声に驚いたようで、ビクッと体を震わせ、持っていたものを床に落としてしまった。それを拾いながら、ぼそりと言う。
「なんだいきなり」
「いや宿題を早く終わらせようと……その一人でってのはあれだし、誰かと一緒にやるのもいいかな。なんて……」
「そうだな、キミには私と違ってちゃんと友達がいるのだったな。悪かった、もう誘わない」
「いえ、そうではなく」
歯切れの悪い話し方ではうまく伝わらなかったようで、先輩は俺の言いたいことを理解できていなかった。
言葉というのは難しい。ちゃんと言葉にして相手に届けなければ、伝えることはできない。どうにかして、自分から結論を言わなくてもいいように仕向けるつもりだったが、うまくいかないものだ。
「なにが言いたい」
覚悟を決めたつもりでも、どこかでまだ躊躇しているのだろう。そうやって避けている以上は伝わらない。またさっきのように彼女はどこかへ行ってしまうだろう。それは嫌だ。
言わなければいけない。はっきりと。
「よければ、一緒に宿題しましょう」
言った。ちゃんと言葉にして俺が望んでいることを告げた。
すると、彼女は嬉しそうな表情をして、また曇らせた。そして、「それはつまり……」と小さくごにょごにょと言ったあと、さっきよりも嬉しさが伝わるほどに頬が緩んだ。
「ほんとに、ほんとーに行くからな!」
そう念を押されてその場は別れ、次の日、彼女は家にやってきた。
日程は確認していなかったが、まあ今日だろうなとは思っていた。しかし、まさか泊まっていくつもりだったとは。そんなこと思いもしなかった。
「それじゃあプールに行くぞ」
「は?」
「いや、そういう約束だろ」
「嫌ですよ」
「ひどい、キミが課題終わるまで遊びに行かないっていうから頑張ったのに」
「そんなこと――」
言ってない、と言おうとしてやめた。記憶を遡ってみれば、そんなこと言った覚えもあるようなないような。
「用意だってしてあるんだ、ほら」
カバンの中を開いて見せてきた。水色のビキニタイプの水着だった。この間、見えた布はこれだったのか。
俺がここまで誘われて行くと言わないのは意地だ。つまらない意地である。友人に誘われたのも同じように断っている。というのに、女の子と遊びに出かけるというのはどうだろうか。しかも、今までいがみ合っていた先輩と休みの日に遊んでいるなんてクラスメイトに知られたらと思うと……。
そうやってごちゃごちゃと頭の中だけで思考していると、なんだかどうでもいいことで悩んでいるなと馬鹿らしくなってきた。
「まあ、いいか」
「えっ、いいのか!?」
彼女が自分から望んだことだったのに、驚いて聞き返してきた。どうやらさっき俺を説得するに使った言葉は嘘だったらしい。俺が実際に言ったような気がしたということは完全に嘘というわけではないのだろうから、少し誇張したのか。
「まあでも、終わらせたらですけどね」
「むっ、わかった」
先輩はそれまでとは打って変わって、嬉々として問題集に取り組むようになり、ペースが遅くて夜までかかってしまったが、なんとか終わらせることができた。
帰り際、彼女は言った。
「そういえば、私、泳げないんだった」
実に情けない一言である。あんなにしつこく俺を海だのプールだのに誘っておいて、泳げませんでしたなんて。本当に先輩らしい。
いつものように笑って馬鹿にしてしまおうか。一度はそう思ったが、やはり俺も変わらなければならない。
「俺が教えますよ」
仕方がないから、と笑って言う。それを聞いて先輩も嬉しそうに笑った。もっとたくさん、この笑顔を見ていたい。
もう今までのような関係に満足はできない。俺と彼女のちぐはぐな関係はここで終わらせてしまおう。
この15センチの近くて遠い微妙な距離を縮めるために。
曖昧な恋のものさし 汐屋伊織 @hikagenomura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます