第三話

 蕎麦屋はさっきまでとは打って変わって涼しかった。むしろ汗が冷えて寒いくらいである。俺の部屋とは雲泥の差だった。

 冷房が効いていて、席に座ると店員が水とおしぼりを持ってくる。俺たちはざるそばを二つ頼み、店員が奥に戻っていってから、おしぼりを手に取る。バサッと広げて顔に張った汗を拭って、キンキンに冷えた水を一口含んだ。


「さっぱりしたな」

「そうですね」

「キミは温い麦茶しか出してくれなかったからな」

「そうですね!」


 怒りを込めて返事をする。俺たちはことあるごとに互いの粗を突いているが、今日は俺が一方的に言われているだけ。偶にやり返しはしているものの、どうにもすっきりしない。一々返事をするたびに怒りを混ぜるしかないのだ。

 ここで少しからかってみようか。


「そういえば先輩」


 こういうとき、決断してから行動までは速い。脳内で悪魔がささやいた瞬間に俺は先輩に話しかけていた。


「先輩が留年してることはまあわかってるんですけど、理由って聞いたことないですよね。なんでなんすか」

「あー、それ聞くの」


 やはりあんまり触れてほしくない類の話らしい。だが、俺はここでやめるような男ではない。じっと先輩の目を見つめて言わせる。


「そんなに珍しいことでもない。普通に成績が悪かったのだ」


 観念したのか、苦笑しながら溢した。予想通りの返しに、「でしょうね」と笑ってしまいそうになるが、下唇を軽く噛んで堪えた。


「まあ課題だな。未提出が多くてな」

「夏休みのとかですか」

「ああ」

「ちなみに俺が声かけなかったらどうするつもりだったんですか?」


 純粋な疑問だった。これまで通常の課題も遅れて出していたり、出さないままやり過ごしたりしていたのを覚えている。もしもあのまま彼女の話に乗って海に行っていたり、適当に断っていたりしたら、やらないつもりだったのではないか。


「もちろんやるさ」


 そこはきっちりしてるのか。まあ、流石の先輩も二度の留年はできないだろう。そう心の中で納得したタイミングで視線をそらして遠い目になる。


「終わるかどうかは別だがな」


 なんでこんなに偉そうな態度で情けないことを言えるのだろうか。そしてなぜこんなに余裕でいられるのだろうか。俺は既に一つ終わっているが、彼女はほとんど進んでいないはずだ。普通なら焦るところだろう。度胸だけはある。この場合、あってもいいことはないが。


「流石に二回も留年するわけにはいきませんよね」

「ああ、キミの後輩になんてなりたくないしな」

「いや、それなら俺もタメ口で話せるのでいいかもしれないです」

「別に今も敬語はなしでいいのだが」


 俺が先輩に敬語を使い始めたのは、留年していると知ってからだ。一つ年上というのもあるが、どちらかといえば皮肉の意味合いで使うようになった。今はもう癖になっていて、敬語を外すのはそれほど容易ではない。さっきタメ口ができていい、と言ったが本気で言ったわけではないのだ。おそらく彼女はもう一度留年して一つ下の学年になったとしても、平気で俺に絡みに来るだろう。さっきも言ったように彼女は度胸だけはあるから、他人にどう言われようともそうそう気にしない。

 しかし、俺は困る。いきなり「今日からキミの後輩だ。敬語はやめろ」なんて、先輩に言われてもいきなり変えられないし、彼女も敬語にすることはできないだろう。そうなれば、今度は後輩に好き放題言われている情けないチビ男と言われることになる。同じクラスだった人ならばわかってくれるだろうが、俺たちがこうして毎日のように悪態をつきあっていることは学年中に知られているわけではない。ほとんどの人が奇怪な眼差しを向けてくるはずだ。


「先輩、今日は奢りますよ」

「なに、どういう風の吹き回しだ」

「気にしないでください」


 もう十分に面白い話が聞けたから。少しだけ優しくしてあげよう。そのことは言わずにニコニコと笑ってみる。


「少々気味が悪いが、せっかくだ。ご馳走になろう」

「その代わり、ちゃんと課題は進めてくださいよ」

「なっ、ずるだぞ」


 いや、どちらにせよ、やらなければならないでしょうに。

 これだから、この人と話すのは楽しく、おもしろいと思えてしまうのだろう。

 焦って取り乱す先輩を見て笑っていると、そこへ「お待たせしました」と店員がお盆を二つ持ってきた。


「それじゃあ早く食べて帰って勉強しましょう」

「キミの奢りなんだ、味わって食べさせてくれよ」

「そうですね。味わいつつ、なるべく早く食べてください」


 そう言って麺を啜る。先輩は割り箸を割らずに右手で持ってぶんぶんと振り回しながら、「聞いてないな!」と抗議の意を示す。そんな滑稽な姿を横目にひっそりと口角を上げた。

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