第二話

「小海先輩お腹空いてますか」


 彼女が俺の家にやって来てから三時間が経ち、時計の針は既に十二時を指していた。

 それに気がついたのも、腹の中で飼っている虫が元気に鳴いたからである。彼女には聞こえなかったのか、幸いにもそのことで弄られることはなかった。

 たくさん頭を使ったからか、ものすごくお腹が空いている。自分がそうなら、自分よりも机の上に広げられた課題に苦戦しているであろう少女はもっとお腹が空いてるのではないだろうか。そう思って聞いた。

 案の定、彼女はお腹が空いていたようで、俺が口を開いた途端に嬉しそうに目を輝かせた。


「なにか食べたいものでもありますか」

「そうだな、夏らしいものがいいな」


 夏休みに入ったばかりの今、そこまで夏を感じることができていない。唯一の夏らしさと言えば暑さのみ。彼女の中では夏は楽しいもので、こんな暑くて苦しいだけなのは夏とは認められないのだ。故に料理にまで夏らしさを求めた、というところだろうか。

 そんな抽象的に言われても困るのだが、仕方がないから思いついたものを言ってみる。


「冷やし中華とか素麺とかですか」

「ああ、あとはざるそばとかもだな」


 まさかの選択肢を増やしてきた。確かにそれも夏によく食べるけれど、選択肢が多いと決められなくなるのではという懸念が生じる。


「そうですね。夏の食べ物って麺類多いですよね」

「確かにそうだな」


 俺の言葉に頷くと、ポケットからスマートフォンを出して何やら調べ始めた。

 目的のものを見つけると、スマートフォンの画面をこちらに向けて手渡してきた。


「これを見てみろ。冷やし麺という食べ方らしい」


 夏にも麺を食べやすくする工夫だという。蕎麦や素麺の他に、ラーメンやうどんなんかも冷やして食べることがあるらしい。

 後の二つに関して、自分はなるべく温かいままで食べたいと思うが、まあそれは人それぞれだろう。


「昔の人はすごいですね」

「まったくだ。先人たちの知恵のおかげで随分と暮らしやすい。しかし、この部屋は少し不便だ。エアコンどころか扇風機の一つもない」


 Tシャツの首元をパタパタと動かして熱を逃がそうとする。確かに暑いが、この人の表情を見るに八割くらいは嫌味のつもりだろう。

 真正面から応える必要はない。適当に流しておこう。


「すみませんね、我慢できないなら帰っていただいて結構ですよ」

「いやいやそれには及ばない。一晩は帰らないと母に伝えてある」


 ふふんと自慢げに鼻を鳴らす。


「泊まる気満々じゃないですか!」

「ふふ、パジャマと枕も持ってきた」


 カバンの中を見せてくる。一瞬、下着が見えたような気がしたが、おそらく気のせいだろう。気のせいということにしておきたい。すぐに視線をずらし、そう自分に言い聞かせて冷静さを保つ。

 心做しか、先程より暑いような気がする。


「今日と明日で終わらせるぞ」

「はいはい。で、ご飯はどうしますか」

「さっきのからキミが選んでくれ」


 結局、丸投げである。であれば、近くにあるお店で済ましてしまおう。


「じゃあ蕎麦にしましょう。少し歩いて行ったところに美味しい蕎麦屋があるんで」


 俺たちは財布だけ持って部屋を出る。

 先輩がトイレに行っているので、俺はその間にリビングで紙とペンを探した。

 今、この家には俺と先輩しかいない。朝起きた時は母親がいたのだけれど、いつの間にかいなくなっていた。前日に先輩が来ることを伝えていたので、もしかすると気を利かせてくれたのかもしれない。

 どこに行ったか知らないが、昼ご飯を食べに行くことだけ書き置きしておいた方がいいだろう。

 用を済ませて玄関に行くと、そこに先輩の姿はなかった。外で待っているのだろうか。

 だったらあまり待たせられない。靴に足を入れ、急いで紐を結ぶ。

 次はもう片方。そう左足に手と視線を動かすと、シュッと小さく音がした。

 何の音か気になって音のした右足を見ていると、さっき結んだはずの靴紐が解けていた。


「小海先輩、なにしてんすか」


 右斜め後ろを振り向くと、先輩が悪戯が成功した子供のような顔でこちらを見ていた。


「気づかなかっただろ」


 一番意識が逸れるタイミングと腕に被さって見えづらくするように気をつけたという。こういう時だけ無駄に頭を働かせるのだからタチが悪い。


「すごいすごい」


 適当に流して、靴を履くように促す。

 満足気に笑いながら靴紐を結ぶ彼女に、俺はやられたことと全く同じことをする。普通はやり返されないかと意識するものだが、彼女はそんなこと考えなかったようだ。

 結んだ紐を引っ張ると、スルリと容易に解けた。彼女が頬を膨らませて俺を睨んでいたが、その顔がまたおかしくて笑った。



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