曖昧な恋のものさし
汐屋伊織
第一話
かすかに聞こえる蚊の羽音と絶えず鳴り続ける蝉の声。空調の効いてない部屋の中、俺と一人の少女がこぢんまりとした机を囲んでいた。
机の上には筆箱が二つと教科書やら問題集やらが置かれており、俺はひたすら問題集に載っている問題を解き続けていた。わからないところがあれば、教科書の中から答えや解き方を探し、再びペンを走らせる。黙々とそれを続けている。
だというのに、少女は寝転がって天を仰ぎ、スマートフォンの画面を親指で触りながら、もう片方の手で団扇を扇いでいるだけだった。
部屋中にこもっている蒸し蒸しとした空気に襲われて、全身を汗が伝う。鼻の下にびっしりとかいた大量の汗が気になったので、手の甲で拭った。
俺には癖がある。鼻の下の汗を拭った後、すぐに短く鼻で息をするのだ。
この時も何気なく鼻で空気を吸い込んだ。すると、なんとも言い難い甘い香りが俺の嗅覚を刺激した。
この香りはおそらく目の前の少女のもの。団扇で扇いでいるせいだろう。
しかし、なぜ汗の臭いがしないのか。俺と同じ環境にいるのだから、彼女もそれなりに汗をかいているはずだけれど、その気配はまったく感じられない。
俺の鼻に届くのは女子特有のあの香りだけである。それを意識した途端に胸の鼓動が高鳴り、この状況に緊張してきた。
少女の目に留まるものがあったのか、スクロールと同時に団扇を持っていた方の手も動かなくなった。しばらくして団扇を放り投げ、立ち上がると、俺に詰め寄りながら声をかけた。
「なんですか」
少女の顔がいきなり接近したせいで更に鼓動が早まる。なるべく動揺は見せないように冷静を装って言った言葉は素っ気ないものだった。
「キミって私とどれくらいの身長差だっけ」
一見は冷徹で感情が見えないが、注視するとその口角は若干上がっていることがわかる。おそらくその答えは予想がついているのだろう。
「この定規くらいじゃないですか」
「ふふっ、やっぱり……」
俺が筆箱からさっと取り出した15センチ定規を見て、楽しそうに笑う。やはり、少女は俺を馬鹿にするつもりだったらしい。
「なんですか嫌味ですか」
俺は元々気分がよくなかったが、その少女の意地悪い質問の影響で更に酷くなった。目の前の少女に冷ややかな目を向ける。すると、少女は慌てて否定した。
「違うって、まあそれもあるんだが」
「あるんですか……」
「まあまあ、これを見なさい」
差し出されたのはスマートフォン。画面に理想の身長差についての記事が映っていた。
「なんですかこれ」
「見ての通りだよ。私たちくらいの身長差が丁度いいようだ」
記事には恋人の身長差は15センチが理想と書いてある。しかし、それは男の方が大きいという前提での話。
そんな話を少女が見下ろしながら言うので、ついカッとなって俺も立ち上がった。先程とは反対に、俺が彼女を見下ろす形になる。
「そうなんですか。それはよかったですね!」
俺は吐き捨てるように言った。少女はよっこいしょ、と年寄り臭い言葉を吐きながら俺に続いてゆっくり立ち上がる。
俺が彼女を見下ろす時間はたったの6秒で終わった。すぐにその立場は入れ替わり、また俺は彼女の腹立たしい笑みを見上げることになる。
そう、俺たちは一般的な男子と女子の身長ではない。俺は女子の平均的な身長と同じで、少女は男子の平均的な身長と同じ。まさに逆身長差である。
そして、先程の理想の身長差については、女性から見て15センチほど大きいといい、という内容の記事である。女の方が高身長という逆身長差の俺たち二人には適用されないことだった。そんなことは彼女もわかっているだろうとあえて言わなかったが、
「ということで、キミと私はこれから恋人になろう」などと戯言を宣う。
「なに馬鹿なこと言ってるんですか」
「いやだって」
「だってもくそもないですよ。一緒に課題やるって言うから場所提供してるんです。さっさと片付けて帰ってくださいよ」
「むう」
少女は嫌々ながらも座り直し、持っていたスマートフォンを机の上に置いてペンを握った。
俺たちが出会ったのは、とある春の日。入学式の翌日の朝のことだ。
教室に入ると、既にほとんどの席が埋まっていて、少人数で集まって小さく話していた。それを見て、俺はなんだか出遅れたような気分になり、昨日言われた席まで背を丸めて歩き、座ってからもどこか暗い雰囲気でいた。
引っ越してきたばかりで知り合いのいない俺は窓際の一番後ろの席で、頬杖をつきながら外を眺めていた。と言ってもつまらない景色で、すぐ側に生えている桜はほとんどの風景を遮り、その隙間から見えるのは誰もいないグラウンドのみ。こんなにも近くから見る桜は風情の欠片もないものだ、と独りごちながら、それでも誰かが楽しそうに話しているのをただ見ているのが嫌で、開放された窓からつまらない景色を見続けていた。
すると、一瞬だけ強風が吹いた。桜の木は揺さぶられ、綺麗に咲かせていた花弁を散らした。花弁は風に乗り、開いた窓から教室の中へ舞い込んでくる。幸い、この教室の窓は俺がいたところだけ開いていて、床に散らばった桜も少しだけだった。
このまま放っておいても文句は言われなそうだが、見ていた俺が知らないふりをしてなにもせずにいるのは違うと思って静かに席を立ち、桜の花弁を一枚一枚拾っていった。
「ホウキ使いなよ」
手間取っている俺を見かねたのか、横からホウキとチリトリを渡された。ありがたく頂戴し、落ちた花弁を集めてそのままゴミ箱に捨てる。
席に戻ってから隣に座っていた長身の女子に感謝の言葉を述べた。すると、彼女は笑った。気にするな、とでも言うのかと思えば、そうではなかった。それは嘲笑だった。
「身長低いな、キミ」
「うるせえデカブツ」
それが初めての俺たちの会話。第一印象はともかく、最後の一言でその少女の株は急落。そしてそれから幾度となく悪口を言われ、言い返し、そんな不思議な関係を続けてきた。
それでも、なんだかんだ他のクラスメイトよりも一緒にいる時間は長く、言い合う日々を嫌ってはいなかった。そんな風に密接に接していれば自然とある感情が湧いてもおかしくないだろう。俺はいつの間にか、彼女のことを好きになっていたのだ。
しかし、これまでいがみ合ってきたというのにいきなり態度を変えるのはおかしいと思い、俺は気持ちを悟られないようにと関係を保ち続けてきた。そのまま三ヶ月が経ち、今に至るのだが、
「あの小海先輩」
一応、右手にペンを持って問題集に向かってはいるが、その反対の手ではやはりスマートフォンを弄っている。
こうして二人きりの空間というのは初めてで、密かに好意的な感情を抱いている俺としては嬉しい。なるべく避けてきたから余計だ。あまり長く二人きりでいると、ボロを出してしまいそうで困る。
彼女にはどうやらやる気がないようなので、それならそろそろ帰ってもらいたいと先程から思っている。と言っても、やはり心の底ではこのまま一緒にいたいと思っているようで、なかなか切り出せずにいた。
「さっきからスマホばっか触ってますけど、ちゃんと課題は進んでるんですか?」
葛藤を続けていたが、俺だけが課題を進めている現状への苛つきが勝ち、遂にそう切り出すことに成功する。
「うっ……ん、もちろんさ」
一瞬。極短い時間だったが、その間は呼吸ができていなかった。そのあともキョロキョロと目を泳がしながら、口ごもりながら答えた。
俺はその瞬間を見逃さずにそこを突く。
「今、間がありましたけど」
「そんなことない」
「結局やらないまま帰るつもりじゃないですよね」
「そ、そんなことない」
「俺が終わってから写すつもりじゃないですよね」
「そそそんなことないぞ」
「もしや俺のを奪って提出するつもりですか」
「しょんなわけがががっ」
明らかに動揺している。俺が質問するたびに動揺は大きくなるので、少しずつ核心に近づいてきているのがわかる。最後なんて疑いの余地もなかった。
「そんな粗暴な女ではないぞ」
強引に奪うという点に関してだけは誤解を解こうとしてきた。頬を膨らませて怒る。その珍妙な顔が少し可愛く見えて、思わず笑みがこぼれる。
「じゃあどういうつもりなんです」
「それはキミが……。いや、この話は終わってからにしよう」
なにか言いかけてやめた。そういう風にされると余計に気になるのだが、わかっていてやっているのだろうか。それは考えすぎか。彼女は頭が悪いのだから。
「なんですかそれ」
「ほら、やるぞ」
「こっちのセリフです」
またそうやって言い合いながら、問題集の上でペンを走らせた。
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