最終話 解放の鐘の音だった。

 魔狼は、たわめた脚を一気に伸ばし、ぐんと跳ねる。廊下の天井近くまで飛ぶと、そこからあたしに向かって落ちてきた。

 あたしの感覚は、シィたちほどには強化されてない。

 だから、落ちてくるのを待っていない。ぎりぎりでかわすなんて無理だし。

 視界の中で魔狼が動いた瞬間には、あたしは前に向かって突っ込んでいた。今の今まで狼が立っていたその場所に。そこがいちばん安全のはず。

 走るあたしをとりまく空気がねっとりと重く感じる。


「ええい、とっまれぇえええ!」


 急停止しようと、踏み込んだ右足の踵で蹴りつける。

 ドン!

 派手な音がして床が砕けた。

 石の床に穴が! 踏み込んだだけで床を踏み抜いて削ってしまったんだ。

 まるで幅跳びで着地したときの砂場の砂みたいに、堅牢なはずの石の床が砕けて破片となって飛び散る。


「っと!」


 体勢を立て直して振り返れば、狼がようやく着地したところだ。


 こしゃくな……。


 そう言って、王の幽霊が狼のなかへと沈みこんだ。

 そして──。


「げ!」


 魔狼の背中、首の後ろあたりの筋肉がぼこりとこぶのように盛り上がった。そのこぶの表面に、ぼこぼこと茶色の泡がいくつも噴き出してくる。膨れて、さらに大きくこぶが育ってゆく。

 ぼこりぼこりと表面が膨れたり凹んだりを繰り返して、こぶは、魔狼の首の後ろに生えたもうひとつの首になった。首の先には王の顔がついていた。

 双頭の狼だ。ただし、ひとつは人面の。

 うぁ。やだ!

 王の幽霊が魔狼と合体したわけだ。言うならば魔狼王ってわけ。


「ユ、ユズレモンのほうがかわいいもん!」


(そこで張り合うなっ!)


「そこ、大事!」


(バカ! くるぞ!)


 魔狼王が、ぱかりと口を開けてから吼えた。

 なにか、くる!

 とっさに身体をひねる。

 身体の脇を衝撃波がかすめ過ぎた。

 ドン! と派手な音を立てて、あたしの後ろの壁に穴が開いた。


「なっ!」


 吼えただけなのに!

 がらがらと壁が崩れた。狼の叫び声が実体ある攻撃となって後ろの壁を砕いた──のだと思う。ちょ、超音波?


『滅びよ……』


 ふたたび、あたしのほうを向いて口を開く。

 あたしは咄嗟に天井に向かって跳んだ。直後。狼の口から青い光が放たれ、床に当たった。

 ドカン!

 床に大きな穴が!

 うひゃあ。

 間をおかず、狼の口があたしのほうを向き、

 や、やばい……空中では姿勢を変えられな──。

 あたしは無理やり身体を捻って、天井を足で蹴りつけた。


『死ねぇ!』


 ぐわぉ、と咆哮があがり、今度は青い光は頭上にぶつかった。

 床に着地するのと、天井に亀裂が走って崩落を始めるのが同時だった。

 砕けた瓦礫が降ってくる。


(避けろ!)


「むり!」


 落ちてくる瓦礫を避けきるだけの反射神経はあたしにはない。だから、とにかく頭の上に落ちてくるやつに向かって拳を突き出したんだ。


(おぉぉぉぉい! 無茶だろおおお!)


 レモンの叫びを頭の隅で聞きながらも、あたしは無我夢中で左右の拳を交互に突き出した。拳の当たった瓦礫が頭の上で弾ける。バシ!バシ!バシ! 砕けた天井の欠片は、砂となって、あたしの周りに噴水のように散らばった。

 落ちてくる瓦礫のすべてをこうして片っ端から粉砕する。


「ぷはぁ!」


(こ、こいつ。ぜんぶ……砕きやがった……!)


「生き残ったぁ!」


 思わず拳を突き上げてしまった。

 天井には大きな穴が空いていた。

 日が差し込んできて明るくなる。


「さてっと。どこに……いったかな」


(後ろだ!)


 背後に気配と風の流れを感じた。

 咄嗟に後ろに向かって蹴り。

 手、いや足ごたえ、あり!

 ギャン、と哭き声があがる。

 狼が吹っ飛ばされ、脇の壁に叩きつけられ──、

 壁に貼りつけになった魔狼から周囲とヒビが走り、皿状に石壁がズドン、と凹んだ。

 そこで終わらない。

 広がった亀裂は左右に広がる遠くの壁まで走り抜け、

 次の瞬間には、

 脇の壁が土砂となって雪崩れた。

 煙を立てて目の前に立ち込める。


(構わねぇ、どうせ使ってねえ棟だ。やっちまえ!)


 レモン王の許しに、あたしは心の中で「わかった」と答える。


 ゆらり、と瓦礫の中から魔狼王が立ち上がった。

 ぶるりと首を振ってから、あたしを──あたしたちを睨みつけてくる。


 やらぬ……。猫などには妻も娘もその髪の毛ひとつ、やらぬ……。


 王の瞳の奥には、暗い炎が燃えている。

 たぶん、それは嫉妬という名の炎だ。


「好きなひとを取られたくないって気持ちはわかるよ。それでも──」


 あたしは真正面から王と向き合って言った。


「あんなことすべきじゃなかったって、あたしは思う!」


 ぴしりと指を突きつける。

 こいつとレモンの差はそこだ。

 妻を、娘を、猫たちを、まるで奴隷のように縛りつけ、そのすべてが自分の思うとおりにならないと許さなかった。

 レモンは──使い魔のあたしのことを、自分が死にそうなときに、支配から解放しようとしていたのに。


(猫はな。なによりも、自由であることを求める生き物なんだ)


 あたしは心のなかで頷いた。そうだね、レモン。だからこの国では、魔法使いには猫が、使い魔には人間がなることになったんだ。


「もっと、猫たちを見習えってーの!」


 王は何も言わなかった。

 狼のほうも──すでに正気とは思えなかった。

 王の亡霊にむりやり生きながらえさせられて、永遠に休むこともできずに地下に閉じ込められていたのだ。もはやその瞳には、ぎらぎらとした殺意しか残っていない。生きているもの全てに対する害意しか。

 狼が天井に向かって吼えた。

 声の圧力に負け、廊下の天井に亀裂が走りぬけてゆく。獣の頭上から廊下の端の端まで割れてゆく。残っていた天井のすべてから瓦礫が降り注ぎ始めた。


(ぜんぶ埋めちまう気かよ!)


 欠片となった石が次々と落ちてくる。

 身体の大きさほどあるものまで落ちてくる。

 そこまでやるのか。

 こっちは、瓦礫のひとつでも身体に当てるわけにいかないってのに!


(礼拝堂に逃げこめ!)


「うん!」


 レモンの言葉に、あたしは空いていた穴から礼拝堂へと飛び込む。

 崩落した床の手前でジャンプして、吊り下がって下まで落ちたままのシャンデリアの鎖へと飛び移った。

 ぐらん、と大きくシャンデリアが揺れる。ギチっと、鎖がきしむ嫌な音。はっとなる。やばい、重みに鎖が切れそう。

 飛び移ったあたしを追って、狼もシャンデリアの上に飛び込んできた。


(もたねえぞ!)


 飛び乗ってきた狼の重みに、ついに鎖が切れた。


 あたしはシャンデリアを蹴った。

 天井近くまでふたたび身体が浮きあがる。狼は、シャンデリアとともに崩落した穴の下に落ちてゆく。だが、

 砕ける直前でやつは飛び降りた。

 双頭の狼が顔を天井のほう──あたしのほうへと向ける。

 また、咆哮をぶつけてくる気か! けど──、そんな余裕なんて与えない。


「これで!」


 魔狼がふたたび大きな口を開き、魔力を乗せた咆哮を放とうとしたとき。

 あたしはもう狼に向かって飛び降りていた。


「終わりだぁぁぁぁ!」


 格闘技なんてやってるわけじゃないから蹴り技の型なんてわからない。

 とにかく脚を前に出す。

 両足をそろえた状態で思いっきり巨大な狼の身体に突っ込む。

 狼の首筋に、あたしは曲げた両足を思い切り伸ばして叩き込んだ!

 ちっとは、反省しろおぉぉぉぉぉ!

 両足が狼の身体に吸い込まれた。


 オォォ─────────────────ン!


 遠く長く悲鳴をあげる。

 魔狼の身体がゆっくりと横に倒れてゆく。

 どう、と大きな音を立てて落ちた。


 きさま……。


 立ち上がったあたしのすぐ目の前に、狼から抜け出た王の幽霊がいた。

 青白く身体を光らせている。


 ゆるさぬ……ゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬゆるさぬ……。


 まるでバグった動画再生のようにいにしえの王は繰り返す。


 ああ、もうこのひとは……。


(殴れ、ユズハ!)


「わかってる!」


 言われなくても、だよ!

 自分の拳が黄色く輝いている。

 レモンイエローの色の輝きだ。魔法使いの猫の瞳の色だった。暗い廊下にまばゆくきらめくのは、だからたぶんこれは魔法の輝き。


「王妃さまと、王女さまと、閉じ込められた猫たちと、あと、あんたのせいで不幸にされた人と猫たちの、これはお返しだから!」


 拳をひいて、


「この、わからずやぁぁぁぁぁぁぁあ!」


 黄色い魔法の輝きを放ちながら、あたしは拳を王の亡霊へと叩き込む。

 抵抗する力を感じたけど、そのまま拳を押し込んだ。

 直後、爆発。

 光の渦が広がって、一瞬、廊下が昼のように明るくなった。

 息もできないほどの圧力を全身に感じた。なんとか踏みこたえる。


 長く長く悲鳴が尾を引いた。


 輝きが消えたときには、魔狼の姿も亡霊の姿も消えてしまっていた。

 あたしは大きく息を吐いた。

 直後に、雷のような拍手の音。

 振り返れば、穴の縁から覗き込んでいる大勢の人たちと猫たちが見えた。


「すげええええ!」

「あ、悪霊を、鉄拳制裁で成仏させやがった、あいつ……!」

「なんて非常識なんだ!」


 おい。

 

「さすがはレモンさまとユズハさまだ!」


 そう言ってくれたのは執事猫のセバスティアンで、すかさずハナコさんが「すばらしいですわね」とお世辞を添えたものだから、大臣猫たちまでが頷かざるを得なくなっていた。「お、おう」とか言ってね。


 穴の縁から覗きこんでくる彼らに向かって、あたしは手を振った。おれたち、助かったぞお、の声が上がって、その喜びの声が城の隅々まで広がってゆく。


 こうして百年に及ぶ呪いの源は絶たれたのだ。


    ※


 その後に地下で起こったことは、あまり多くはない。

 けれど、とても重要なことがひとつだけあって、最後にそれだけは伝えておこう。


 まっさきに穴の底に降りてきたのは、ブランシュとシィだ。

 穴の底で倒れている兵士たちの状態を超感覚で拾い上げてブランシュが「全員まだ息がある」と告げた。それから、倒れた兵士ひとりひとりを診て回った。

 死んだ者はいない、という言葉にあたしはほっとする。

 そのあとだった。


 王女の幽霊が現れたんだ。


 礼拝堂に現れた幽霊は、ふわふわと、崩落した礼拝堂の穴の下へと落ちてきた。

 あたしのすぐ傍に降り立った。

 間近で、そして昼の光の中で見ると、ほんとうにかわいい少女だった。

 黄金の蜂蜜色をした柔らかそうな髪を揺らしながら、彼女はあたしの脇を通り抜ける。

 通りすがるとき、ちらりと見えた横顔には悲しみではなくて嬉しそうな表情が浮かんでいた。

 王女は開いた暗い横穴の前で立ち止まると、名前をひとつずつ呼び始めた。

 たぶん、猫たちの名前を。

 穴の向こうから応えが返る。

 にゃああんという甘い声。

 続いて九匹の猫たちが姿を見せた。


「ここにいたのね……みんな」


 地下通路の向こうから姿を見せた猫たちが、王女の元へと駆けてくる。次々と飛びついてゆく。まとわりついて転げまわっている。

 もう猫たちを留めるものはいない。


「さあ、みんな行きましょう」


 そう言って、王女の幽霊はふわりと浮き上がった。

 猫たちもじゃれ合いながらもふわり、と。


「待て!」


 声が出ていた。あたしの喉から出たけれど、あたしの意思じゃない。レモンの声だ。


「ひとつ、聞かせてくれ。なぜ、今になって目覚めたんだ?」


 そう幽霊に向かって問いかけた。


(へ? レモンが代替わりして王様になったからじゃないの?)


 身体の優先権をレモンに取られてしまったので、仕方なく口に出さずに問いかける。


「ちがう。それだったら、俺のオヤジやじーちゃんが王になったときにも目覚めてもいいはずだろ!」


(あ……)


 確かレモンが王様になったのがひと月前。その頃から幽霊が出るようになったと聞いていた。だから、レモンの即位がきっかけだって疑いなく思い込んでいた。

 でも──言われてみると確かにヘンだ。

 猫の王様の代替わりはその前から起こっていたのだから。


 あたしたちの目の前、一メートルほどの高さに浮かんだ幽霊の少女は、少しずつ白い輝きに覆われて姿がぼやけてきていた。輝きに包まれながら彼女は言う。


『その人がわたしを起こしたのです』


 視線を追うと、そこに居たのは──。

 シィだ。


『その白い髪の少女の魂はゆっくりと宙を飛んでいました。どこかへと向かっているようでした。眠っていたわたしの近くを通り過ぎ、その気配でわたしは目覚めたのです』

「それはここにいるシィの身体の中から魂が抜けているということか?」


 レモンが驚くようなことを言った。


(ちょ、それってどういう意味。魂と身体って別々になるものなの)


「魂については今度ゆっくり説明してやるよ。とにかく、そいつはたまーに身体から抜けたりするもんなんだ。とくに世界と世界の間を行き来してるときに起こりやすい」


(そ、そうなんだ……)


 よくわからないけど、あたしはとりあえず黙った。


「で、どうなんだ? それは確かにこいつの魂だったのか?」


 レモンの問いかけに対して王女はこくりと頷いたのだ。


「その魂は今どこにある?」


 問いかけた。

 けれど、その疑問に答える時間は王女には既になかったのだ。

 淡い輝きに包まれていた王女は、幾つもの白い光の粒となって宙へと溶けるように消えていった。

 九匹のじゃれつく黒猫たちとともに。 


『ありがとう……』


 お礼の言葉だけが木霊となって礼拝堂に響いた。

 おりしも正午を告げる鐘が鳴る。

 鐘の音は城から外へ、城下へ、キャイネの国ぜんぶへと響き渡ってゆく。

 新しい猫と人たちの造る国を、古き呪いから解き放つ調べだ。


 解放の鐘の音だった。

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