第6話 腕の中からレモンの重みがすっと消えた。

 呆然とした猫の顔を見たのは当然ながら初めてだ。


「レモン! 男でしょ、覚悟を決めて!」


 苦笑に似た笑みをうっすらと浮かべ、レモンは「敵わねぇな、おまえにゃ」とつぶやいた。


「俺の……真似を……」

「しゃべらなくてもいいよ。わかった」


 レモンがよろけつつも立ち上がる。四本の脚で床を踏みしめて立つ。お腹が痛むのだろう、顔を歪ませている。

 あたしはシィがそうしたように、レモンと同じ格好をした。

 横目で窺っていると、レモンは尻尾を左右に振り始めた。

 げげっ、尻尾ですか──で、できるかな。

 自分に尻尾が生えているのはわかっているけれど、思い通りに動かしたことなんてなかった。でも、どうやらちゃんと神経は通っているようで、ゆっくりとレモンの後を追うようにあたしの尻尾も揺れ始める。

 もごもごとレモンが口の中で何かを呟いている。呪文かもしれない。

 そのときだった。

 大きな声が、扉の向こうから聞こえてきた。


「か、怪物が出てきます!」


 ──ええ!? なんでなんで。だって、あの魔狼は黒猫たちを見張っているはず。

 集中が切れなかったのは、すかさずシィが「続けなきゃだめ」と耳元で強く言ってくれたからだ。

 はっとなって一度、首を振った。そうだった。今は余計なことを考えてる場合じゃない。

 右前足だけを持ち上げて、宙を三回引っ掻く。

 左前足を持ち上げて、同じように宙を三回。あたしはレモンと同じ動作を繰り返す。

 ブランシュとシィが扉の向こうで起こっている出来事を超感覚で拾い上げて伝えてくれる。それを頭の片隅で聞きながら、あたしはレモンの真似を続けた。


 通路の中ほどで見張っていた兵士が魔狼が動き出したので穴の外まで逃げてきた。

 剣を鞘から抜く音とともに、兵士たちは扉の向こうで戦い始める。

 だが、魔狼の咆哮が聞こえると、悲鳴とともに、戦いの音はあっという間に聞こえなくなってしまう。

 やられたか、とブランシュがつぶやいた。

 扉をどかんと叩く音が聞こえ始めた。魔狼が扉に体当たりをしているのだ。ブランシュとシィが扉の前にいた城の人々に逃げるように言っている……。


 にゃあ、と鳴いてから、レモンは後ろ足だけで立ち上がった。

 そのままあたしのほうを向いて、両手を突き出してくる。

 あたしも両手を前に出して、レモンと手のひらを合わせた。


「あとは……」


 手を合わせながら、レモンが声を絞り出す。お腹の包帯はもう真っ赤だ。


「あとは、どうすればいいの」

「誓いの印を……」


 その後は聞こえなかった。

 最後の言葉は、「ユズハ」とあたしの名前だけ。

 そのままレモンの脚からは力が抜けて崩れ落ちた。床に横たわって静かに目を閉じた。


「レ、レモン!」


 抱えあげて声をかけるけれど、レモンは目を開かない。

 ──冷たい。

 レモンの身体が冷たくなってゆく。息を──してない。


「レモン! レモン! こら、ばか! 起きなさいってば!」


 あたしの脳裏にキャッティーネに来てから今までにあった様々な出来事がフラッシュバックした。偶然だったけど。レモンの尻尾を掴んで、あたしはこの世界に来た。

 この世界に来て、色々なものを見て、色々な人や猫に出会って。面白かった。楽しかった。シィやブランシュやハナコさんやセバスティアンさんと知り合えてよかった。なんだったら、腹が立つけど大臣猫たちだってその中に含めてもいい。

 きれいなものをたくさん見れた。

 お城のてっぺんから見たキャイネの風景も、真夜中に見た星の井戸も。

 なによりも、あたしの大好きなかわいいもので、この世界はあふれていて──。

 まとわりついてきた子猫たち。あたしのブラッシングに目を細めていた。けれど、この国は今や百年前と同じ道を辿ろうとしているのだ。

 猫も人も滅びてしまう。

 レモンの尻尾を掴んだのは、あたしの意思だ。これは自分で選んだ運命なんだと思う。

 常から、かわいいものであふれた世界を見たいって思っていた、あたしの。

 レモンを、このまま死なせるもんか!

 誓いの印。どうすればいいのか、あたしにはうっすらとわかっていた。

 抱えあげているレモンを抱き寄せる。彼の顔が徐々に大きくなっていって、次の瞬間にはあたしの瞳から彼の表情は消えた。あたしが目を瞑ったからだ。

 唇をそっと彼の唇に寄せる。

 そうして──。

 腕の中からレモンの重みがすっと消えた。

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